徳川幕府の社寺政策

 

  元和元年(1615年)

 

徳川家康は大阪夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、「武家諸法度(ぶけしょはっと)」と「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定して、諸大名と朝廷に対する江戸幕府の体制の枠組みを作り上げました。

江戸幕府の諸法度は3代将軍・家光のころまでに整って行きます。

 

  キリスト教禁止

家光はキリスト教禁止を徹底させ、寛永16年(1639年)にはポルトガル船の来航を禁じ、いわゆる鎖国が完成しました。

  寺社奉行

それと前後して、幕府内の職制の大綱も定められ、老中、若年寄などとともに、寺社行政を管轄する「寺社奉行」が置かれました。

寺社奉行は勘定奉行、町奉行とともに三奉行とされ、他の奉行が老中支配であるのに対し、寺社奉行は将軍直属で、三奉行中の筆頭で幕府の要職でした。

寺社奉行は、社寺の造営修理や領地安堵、訴訟のほか、神職、僧侶、社寺領内の取り締まりもその所管でした。

諸大名もおおむね寺社奉行やそれに類する役職を設置し、自国内の社寺の管轄を行わせました。

 

  日光奉行/山田奉行

 

他に遠国(おんごく)奉行の日光奉行と山田奉行がありました。

日光奉行は東照宮や家光を祀った大猷院(だいゆういん)廟、日光山領などの管理を受け持ちました。

山田奉行は神宮の警備、造替などの管理、伊勢国内の幕府領などを所管しました。

また遷宮奉行とも呼ばれ、式年遷宮においてもその役割を果たしました。

 

  キリスト教弾圧から寺請制度へ

 

江戸幕府はキリスト教禁止については、当初、布教のみを禁じていましたが、

元和年間(1615~1624年)には、厳しい捜査や取り締まり、処罰が行われるようになりました。

宗門改(しゅうもんあらため)という信仰調査を行い、仏教への改宗を強制するなどキリスト教に対する厳しい監視を行いました。

キリスト教が広まる事で諸外国の侵略に繋がり、信徒が団結することを恐れたのです。

寛永14年(1637年)に九州で島原の乱が起こると、その監視は一層厳しくなりました。

そこで寺請け制度を設けて、全ての人を、どこかの寺院に所属させてキリシタンでないことを証明させました。

武家も神職の家も檀那寺の檀家になって、寺請証文を受けました。

そしてその際に作られた「宗門人別帳」は戸籍としての性格も有していくようになります。

しかし仏教でも日蓮宗の一派「不受不施派」などは弾圧を受け、

神道や修験道、陰陽道は認められていました。

 

  お寺の本山と一般寺院の組織

寛文5年(1665年)には、諸宗寺院法度(寺院諸法度)が出され、

各仏教宗派は「本山」という中心寺院と、その統制下の一般寺院(末寺)に組織されました。

幕府は寺院の間に本末関係をつくらせて、寺院と僧侶の統制を図ったのです。

これはもともと天台・真言などの旧仏教各宗の大寺院に「寺院法度」として家康の頃に出されていたものを各宗派に共通にして発令したものです。

 

『神社のいろは・続』より