吉田神道【5】宗源宣旨と神道裁許状/戦国大名、陰陽師、境内埋葬等 | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

吉田神道【5】

 

  宗源宣旨と神道裁許状

吉田兼倶は宗源宣旨(そうげんせんじ)と神道裁許状(しんとうさいきょじょう)を発行し始めました。

 

宗源宣旨とは?

諸社の神々に対して神位・神階を授けるものです

 

神道裁許状とは?

神事に関する免許状ともいえるものです

 

これが吉田神道説を全国へ広めて吉田家が全国の神社に対して権威となる契機になりました。

本来、神位・神階は公卿の会議と天皇への奏聞(そうもん)を経て与えられるものでしたが、中世には廃絶してしまいました。

兼倶は当初、勅許をえた上で発行していましたが、のちに吉田家の裁量で授与されるようになっていきます。

これは、地域社会が新たに編成されていく中で、中央の神社が地方に勧請されていく動きに合ったもので、兼倶の次の代の吉田兼右(かねみぎ)は、宗源宗旨と神道裁許状発行を拡大し、自ら地方に出向いて普及を図りました。

 

  宮座・戦国大名との関与

吉田家は宮座へも関与していきます。

惣村をうまく取り込むことを意図していた戦国大名は、惣村と関係の深い有力神社を保護しようと考えていました。

吉田家は戦国大名と関係を結び、有力神社に対して神道伝授を行い宗源宗旨と神道裁許状を発行したのです。

これは神位・神階を求める乙名たちの要求にこたえるものでもありました。

さらに、兼右の次の代の兼見と弟・梵舜は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に近づき、吉田家の地位向上に努めました。

 

  三社託宣も導入

兼倶が著書の中で三社託宣を注釈して吉田神道に導入したのも、普及の一端を担っていました。

 

  陰陽師の個人祈祷法作成

また、陰陽師の職掌であった個人祈祷の行法の作成にも努め、

『六根清浄大祓(ろっこんしょうじょうおおはらえ)』をまとめて、

これも社会一般に吉田神道が広がっていく要素となりました。

安倍晴明

 

 

  だけど伊勢大神宮には大きな反発くらった

また延暦元年(1489年)には「神宮の神器が吉田山の斎場所に飛来した」と朝廷に奏上し、大神宮信仰をも、吉田神道の影響下に置こうともくろんだようですが、これは伊勢側の大きな反発を招きました。(まあ当然かと私は思いました)

自らの教説の正統性を示す為、他宗教ばかりでなく神社関係者とも論争となり軋轢も多くありました。

しかし、中世から近世への神道の架け橋となった事の意義は大きく、途絶えていた神祇官の祭祀を復活させるなど、朝廷祭祀の担い手としての側面も持っていました。

 

  神域に埋葬という掟破り

吉田兼倶は永正8年(1511年)、77歳で亡くなり、没後吉田社境内に埋葬され、その上に社殿を設けて祀られました。

兼倶自身の遺志によるものと考えられ、以来、吉田家当主が没すると境内地に葬られ、神号が贈られ、現在も吉田神社の末社・神龍社の御祭神として祀られています。

 

神域内に人を埋葬する行為は、『延喜式』にも記されていた古来からのタブーを犯すものでした。

しかし神葬祭の鏑矢ともいえ、人を神として祀る事の一つの前例として、

近世初頭の豊臣秀吉の豊国(ほうこく)神社や徳川家康の東照宮などの創建につながっていきます。