平安貴族の生活と陰陽道 | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

平安貴族の生活と陰陽道

10~11世紀になると、貴族社会を中心に日本の風土や日本人のし好に合う洗練された国風文化が生まれてきます。

例えば「かな文字」の発達。

それによって和歌が盛んになり、延喜5年(905年)醍醐天皇の命による最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂されたとか。

勅撰和歌集というのは、天皇・上皇・法皇の命によって歌人が編集した和歌集のことをいうそうで、室町時代まで21集が編まれたそうです。(二十一代集)

国文学の最高傑作と言われている『源氏物語』『枕草子』などが生まれたのもこの頃でした。

また平安時代には『貞観儀式(じょうがんぎしき)』という貞観年間(859~877年)に撰録された践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)や年中恒例の儀式、また政務に関するものや臨時の儀式の式次第を定めたものですが、そうした儀式書も数多く編纂されました。

 

書道では平安初期には『嵯峨天皇』『空海』『橘逸勢(たちばなのはやなり)』が唐風の書で『三筆』と称され、平安後期には優美な線を特徴とした和様が発達し、

『小野道風』『藤原佐理(ふじわらのすけまさ)』『藤原行成』が三蹟と称されました。

 

貴族の住宅も白木造りなど日本風になり、装いも男性の正装は束帯や、衣冠。女性の正装は唐衣や裳(も)をつけた女房装束(十二単)に変わってきました。

 

 

男性の通常服は直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)

女性の通常服は小袿(こうちぎ)に袴をつけたものでした。

 

成人年齢もこの時代は10~15歳で男性は元服(げんぷく)、女性は裳着(もぎ)の式をもって成人として扱われ、男性は官職を得て朝廷に仕えました。

当時は京を離れて旅行することは稀でした。

 

このような時代背景で個人の意識が高まり、信仰も個人化する時代でもありました。

貴族たちは密教僧などに立身出世や疫病退散など現世利益を祈祷させました。

また日柄を気にかけ、物忌みとして引きこもったり、方たがえと言って凶方角を避けて行動しました。

これは大陸から伝来した陰陽五行説に基づく陰陽道の影響です。

今でも四柱推命や九星気学、暦などで伝わっていますね。

下の写真は晴明神社から令和3年に郵送して頂いた暦です。

 

この陰陽道の影響を受けて神祇祭祀に変化が出てきた部分もあるそうで、

平安初期までは祓の祭祀として神祇官による祭りが行われてきましたが、

平安中期以降は陰陽寮の儀礼として行われるようになり、

中臣氏が奏上していた「大祓詞(中臣祓)」は「中臣祭文(なかとみのさいもん)」として陰陽師に用いられるようになっていきます。

また、10世紀から11世紀になると陰陽寮の官僚は、安倍晴明で有名な安倍氏や賀茂氏たちが中心となり、それ以外の人達は民間に流出して、陰陽道的呪術は貴族層だけでなく一般にも広がりました。

 

↑安倍晴明公

 

さらに平安後期以降の中世には大陸伝来の道教や神仙思想、易などに基づく呪術も一般に広がっていきました。

そしてそれらの一部は修験道や吉田神道などに受け継がれていくことになります。

 

と、まあこんな感じの事が「神社のいろは・続」に書かれていたのですが、

陰陽師は国家公務員だったのですね。