飛鳥浄御原令・藤原京遷都
第40代・天武天皇の跡には、その皇后であった第41代・持統天皇が即位されます。
天武天皇は生前、6人の皇子を吉野に集め
「未来永劫、皇位継承の争いをしないように」と誓いを立てさせており、(吉野の会盟)
本来なら皇后ではなく皇子のうち草壁皇子が皇太子で継承するはずでしたが、
大津皇子が謀反をおこし自害し、姉の大来皇女(おおくのひめみこ)は伊勢の斎宮の任を解かれました。
皇后は皇太子と共に天武天皇の遺志を引き継いで
「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」という律令体制の整備も完成し、
草壁皇子も、さあ、これから即位…という時に亡くなられてしまいました。
しかし草壁皇子の男子である軽皇子(かるのみこ)は、当時まだ6歳と幼く、
持統天皇は皇位という重責を負うことを決意されたのでした。
日本書紀には持統天皇の即位の儀式について記載があるそうです。
そこには物部氏、中臣氏、忌部氏の名前もありまして、
中臣氏と忌部氏については、また後日書きたいと思います。
また持統天皇は翌年11月大嘗祭を行いました。
即位と関連した一世一代のお祭り「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」の初期の記録です。
そして持統天皇は天武天皇の悲願であった本格的な都を完成させ、大和三山に囲まれたその「藤原京」へと遷都されました。
左:観音菩薩立像(かんのんぼさつりゅうぞう)飛鳥時代 7~8世紀 島根県鰐淵寺(島根県立古代出雲歴史博物館寄託)
右:観音菩薩立像 飛鳥時代 持統天皇6年(692年)島根県鰐淵寺(島根県立古代出雲歴史博物館寄託)