天武天皇、飛鳥浄御原宮で即位
天智天皇が崩御されると、その皇子である大友皇子(おおとものみこ)と、
天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)との間で皇位継承をめぐり、
672年に壬申の乱が起きました。
大海人皇子は美濃(岐阜)に拠点をおき、東国からの軍事動員に成功して、大友皇子の近江朝廷を倒し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位されました。
第40代・天武天皇です。
そして近江朝廷についた中央の有力豪族は没落し、
天武天皇を中心とした中央集権的な国家体制の形成が進んでいきます。
天武天皇は大臣の任命を行わず、一貫して皇族だけによる皇親政治を行われました。
豪族の領有民を廃止し、官人の位階や昇進の制度を定めて官僚制の形成も進められました。
八色の姓
そして八色の姓(やくさのかばね)を定めて、大王家と関係の深い者を上位に置き、
「真人(まひと)」や「朝臣(あそみ)」「宿禰(すくね)」「忌寸(いみき)」「道師(みちのし)」「臣(おみ)」「連(むらじ)」「稲置いなぎ)」の姓を与え、豪族たちを新しい身分秩序に編成しました。
日本という国号も大化の頃に初めて使われ、天武天皇の7世紀後半から用いられるようになったようです。
それまでは「やまと」「倭」を国の総称としていました。
また、のちに古事記・日本書紀として結実することになる帝紀・上古諸事(じょうこしょじ)の編纂作業が命じられました。
天武天皇は中国の都城にならって藤原京の造営も始められましたが、完成前に崩御されてしまいました。(686年)
左:如来坐像(にょらいざぞう)飛鳥時代7世紀 東京国立博物館 法隆寺献納宝物
右:如来及び両脇侍立像(にょらいおよびりょうきょうじりゅうぞう)
朝鮮半島・三国時代あるいは飛鳥時代 6~7世紀 東京国立博物館 隆寺献納宝物
出雲と大和展の図録より