第39代・弘文天皇 第40代・天武天皇即位前紀と元年紀/壬申紀 | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

日本書紀第28巻は天武天皇の即位紀と元年紀で、

壬申の乱の事が詳しく書かれているので壬申紀ともいいます。

 

壬申の年・天武天皇元年(西暦672年)

 

吉野に入った大海人皇子は、大友皇子の近江朝廷の動きに危険を感じ、挙兵を決意する

6月 妃の莵野皇女(うののひめみこ・天智天皇皇女で後の持統天皇)と共に吉野から東国へ出発、伊賀を経て鈴鹿山脈を越え伊勢に到着

朝明川で天照大神を遥拝し、

桑名の郡家(こおりのみやけ)へと進めて、高市皇子・大津皇子などとも次々に合流し、兵を美濃に進めて

いち早く「不破の関」という畿内を防御するために特に重視された関所の一つを抑えた

 

一方、大伴吹負(おおとものふけい)が飛鳥で蜂起して近江朝廷の後方をかく乱していた

近江朝廷も諸国の兵を集めますがうまくいかず、

7月7日に大津京が陥落し、

その後も大和などで1か月に及ぶ激戦が続き、

大友皇子はついに自害して、大海人皇子が勝利した

 

なお、天智天皇崩御後は、近江朝廷の政治は大友皇子が執っていたと思われるが、日本書紀にはその即位については書かれてない。

これは日本書紀編纂を命じたのが天武天皇でしたので、敵対した皇子の在位を認めるのは、はばかられたと考えられている。

 

しかし、平安時代に成立した『扶桑略記』(ふそうりゃくき)などに、皇子即位の事が記されており、江戸時代、水戸藩で編纂された歴史書である『大日本史』が「天皇大友」として歴代に加え、伴信友も『長等(ながら)の山風』を著して壬申紀を詳細に研究し大友皇子の即位を実証しようとしました。

こうした流れを受けて明治3年(1870年)に皇子に弘文天皇の諱号が追贈され正式に歴代に加えられました。

 

(つづく)