顕宗天皇が崩御されると、その兄である億計王が仁賢(にんけん)天皇として即位されます。
この継承は身内同士で争わずに穏便でしたが、
『歴史道 古代天皇の謎と秘史』の継承図には、
定かではないものの、どうも顕宗天皇の治世が485~487?年と2年で、かなり短いです。皇子はいなかったようです。
神社検定テキスト『神話のおへそ 日本書紀編』では、
仁賢5年(492年)
諸国に逃げていた佐伯部(さえきべ)を集め、天皇の父と共に殺された佐伯部仲子(さえきべなかちこ)の子孫を
佐伯造(さえきのみやつこ)に任命
佐伯部とは蝦夷によって組織された集団のことをいい、ここでは佐伯造の管轄下に置かれたことを言っているとされています。
そして次に第25代・武烈天皇です。
暴虐な所業が多かったと書かれていますが、
「古事記」には見えておらず、
中国の史書と類似している事から、かなり誇張が加えられていると考えられます。
これは百済王の記事が誤って混入されたという説
仁徳天皇の系譜から応神天皇の系統に連なる次の継体天皇への皇統の移動を背景に仁徳天皇系最後の武烈天皇を悪く描いたという説などがあります。
その他、この時代に、百済では日本で生まれた嶋王が即位して武寧王となり、朝貢してきた事が記されています。
と、ありました。
そうそう、神社巡りのお供には関係ない情報ですが、
宋書という宋(中国)の歴史(483~493年)を、まとめた書物に、
倭の五人の王に関する記述がみられ、
讃・珍・済・興・武という名で外交使節団を宋に派遣したとありますが、
宋書と日本書紀と古事記は必ずしも一致せず、雄略天皇と武王の記述が重なるくらいだそうです。