第22代清寧天皇・23代顕宗天皇紀/月読神社の創祀 | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

清寧(せいねい)天皇の即位前紀では、また皇位争いがありまして、異母兄の星川皇子(ほしかわのみこ)が朝廷が諸国からの税である調や貢物を保管する大蔵を占拠したので誅殺されました。

 

第22代・清寧天皇は生まれながらに白髪で

「白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらぎ)」という名でもありました。

即位後は天皇には子が無かった為、その名を遺すために

天皇の名を冠した

白髪部舎人(しらかべのとねり)天皇の近くに仕えた護衛

白髪部膳夫(しらかべのかしわで)食膳に関して仕える者

白髪部ゆ負(しらかべのゆけい・「ゆ」の漢字は革に叉)兵士

を諸国に置いたと記されています。

一般に舎人は主に東国の有力者の子弟からとり、この白髪部舎人の場合、その費用は各国の白髪部の人々が負担しました。

 

また、雄略天皇に殺された市辺押盤(いちのべおしはの)皇子の遺児、億計(おけの)王と弘計(をけの)王が播磨で発見されたので、天皇は喜んで都に迎えました。

 

第23代・顕宗天皇即位前

清寧天皇が大嘗祭の供物を整える為、播磨国に使者を遣わし、明石郡の屯倉首(みやけのおびと)の新築祝いの宴へ立ち寄りました。

そこに身分を隠して馬の世話などの下働きをして仕えていた兄弟が、宴で舞をさせられた時、決死の覚悟で身分を明かす歌を歌ったのです。

それを聞いた伊予来目部小楯(いよのくめべのおだて)は驚いて都に報告したところ、

清寧天皇は喜んで皇子達を迎え入れました。

そして兄の億計王を皇太子に定めました。

その後、清寧天皇が崩御されると、兄弟は皇位を譲り合ってなかなか決まらなかったので、

姉の飯豊青皇女(いいとよのあおのひめみこ)が、しばらく政治を行います。

次いで皇女も亡くなり、なおも皇位を譲り合いますが、ついに弟の弘計王が即位しました。

 

第23代顕宗天皇は、父を殺した雄略天皇への復讐の為、その陵(みささぎ)を破壊しようと考えましたが、

兄の億計王がそれを諫めたので思いとどまりました。

 

顕宗天皇の3年(487年)

2月 任那に遣わされた阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が、

月の神の宣託を報告し、山背(やましろの)国の田地が月神に奉納されます。

これが松尾大社摂社の月読(つきよみ)神社(京都市西京区)の創祀であると考えられています。

またこの時の月神の宣託の中に、

高皇産霊尊の働きを指す「天地溶造(天地を溶かし造る)という語が出てきます。

 

4月 次に4月には日の神の宣託があって、

高皇産霊尊に大和の田地が奉られました。