戦いのさなか長髄彦が磐余彦尊(=神武天皇)に使いを送って言う事には、
「この地域には昔、天津神の御子である櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)が天磐船(あめのいわふね)に乗って天降られていた。
この方が、我が妹・三炊屋媛(みやしきやひめ)を娶って子が出来た。
だから私は饒速日命を君として仕えているのだ。
それなのに、なぜあなたは天津神の子と名乗って人の土地を奪おうとするのだろうか?天つ神の子は2人いるのだろうか?私が思うにそれは嘘、偽りであろう」と。
それに対して、磐余彦尊は
「天つ神の子は多くいる。お前が君として仕えている人が、本当に天つ神の子であるならば、必ず表物(しるしもの)を持っている。それを示しなさい。」と言われたので、長髄彦は饒速日命の
天羽羽矢(あめのははや)と「かちゆき」という徒歩で弓を射る時に使う武具を示しました。
そして磐余彦尊はこれを見て偽りでないことを認め、
ご自分も所持してらっしゃる天羽羽矢(あめのははや)と「かちゆき」を長髄彦に見せられた。
※天羽羽矢は、蛇の呪力を負った矢の事である。
長髄彦は戸惑った。
磐余彦尊の天つ神の証をみて畏れ多い気持ちは強まったが、一度振り上げたこぶしを降ろせない。
構えた軍勢の勢いを止めるのは難しかった。
そこで、饒速日命は、天つ神が心配するのは天孫の事だけであるという事が分かっていたし、長髄彦には教えても理解できないと思われ、それに性格もネジ曲がっているという事で滅ぼしてしまったのだ。
そして饒速日命は部下を率いて磐余彦尊に帰順された。
尊は、天つ神の御子という事が分かり、さらに今忠誠を誓ったので、これをほめて寵愛した。
饒速日命は物部氏の先祖である。
以下、翌年2月20日以降、帰順しなかった者達を攻めて滅ぼした。
人と天津神の違いが分からない宿敵・長髄彦(ながすねひこ)を倒して、国の真中(もなか)である橿原の地に橿原宮を造営し、ご即位された神武天皇。
とは言え、私も長髄彦の事を言えません。
最近になってホツマツタエなども合わせて読むことで、日本書紀編の長髄彦の主張や天津神の言い伝えの食い違いが分かってきたところです。
ホツマツタエだと、瓊瓊杵尊はニニキネで、その兄が大和の国あたりに先に派遣されていて、ニニキネは各地を転々とし晩年に九州地方に赴任して開墾して国づくりしてきたのだけど・・・その子孫がねぇ。
その頃には、おそらく火山の噴火で火山灰が降ったなどで、農地を耕せなくなって九州から他の土地へ移動していったのではないか?という説もありました。
(つづく)