こうして大和を平定した磐余彦尊は、
三月七日
詔(みことのり)を出して
「東征を始めてから6年過ぎた。天つ神が国を授けられた恩に報い皇孫以降の歴代が養ってこられた徳を広めよう。天下を一つの家のようにしよう。見ればかの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原の地は国の真中(もなか)である。ここに都を造るべし」と宣言されました。
八月十六日
天皇は正妃を立てられようと思われた。
そんな時、ある人が
「事代主神が玉櫛媛(たまくしひめ)という、三島溝くい耳神の娘を娶って生まれた子が、媛たたら五十鈴媛命といい、容色優れた人です」と推薦され、天皇は喜ばれて正妃とされました。
皇后は後に神八井命(かむやいのみこと)、神ぬ名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)の二人の皇子をお生みになりました。《日本書紀編より》
別の伝承では、天皇が皇后にする女性を探し求めていると、
大久米命(おおくめのみこと)が、
「いい娘がおります。神の御子ですよ。三島溝くいの娘に勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という大変美しい娘がいて、美和の大物主神(おおものぬしのかみ・大和の三輪山の神)が見初め、娘が厠に入っている時に大神は丹塗り矢(赤く塗られた矢)になって、乙女のほと(陰部)を突きました。娘は驚いて矢を持ち帰り、家に置くと、矢はたちまち麗しい男となって二人は結ばれたのです。そうして生まれた娘が、その『ほとたたらいすすきひめのみこと』またの名を『ひめたたらいすけよりひめ』といいまして、その娘がよろしいかと」と申しました。
神武天皇は、その娘が仲間の娘たちと遊んでいるところを見て一目で気に入り、大久米命を通じて結婚を申し込みました。
すると伊須気余理比売(いすきよりひめ)も承諾し、
天皇は三輪山の麓(ふもと)を流れる狭井河(さいがわ)のほとりにある比売(ひめ)の家に行き、一夜宿りました。
その時、天皇が詠んだ歌
葦原の しけしき小屋(おや)に 菅畳(すがたたみ)
いや清敷(さやし)きて 我が二人寝し
こちらの伝承では三柱の御子が生まれたとあります。
日子八井命(ひこやいのみこと)
神八井耳命(かむやいみみのみこと)
神沼河耳命(かみぬなかわみみのみこと)
と名付けられました。
のちに皇位を継承したのは神沼河耳命です。
この結婚は、天つ神の子孫である天皇が、
大物主神=大国主神の幸魂・奇魂であるので、
その娘と結婚することで国つ神と対立するのでなく和合するという指針がここでも示されているという事です。
そして辛酉年(BC660)一月一日
初代・神武天皇は橿原宮にてご即位されました。
正妃を尊び皇后とされた。
その当時の元日が今の暦で言うと2月11日で、この日が紀元節、戦後は建国記念の日。
年代についてもBC660年は古すぎて信じられないとか、
歴代天皇の寿命も長すぎる方々がいる事から、
1年に1歳年を取るのではなく、春と秋の収穫のたびに年が変わって1年に2歳年を取る数え方だった説、それに天皇の代替わりの時にもずれたのを直して考えると、大体ご即位は紀元1世紀頃じゃないか?という説もあるようです。
でも、約5000年前の縄文時代の三内丸山遺跡が青森で発掘されたり縄文遺跡が発掘される神社もあるので、5000年くらい前から日本の国土に人が暮らしていたのは確実です。
東征始めたのが45歳でしたから51歳になって、やっとご成婚というと遅い気がしますが、1年に2歳年を取る説で考えれば、20代ですね。
神武4年2月23日
皇祖(みおや)の霊(みたま)の助けで国も平定して何事もなくなったので、天神を祀りたいとおっしゃり、鳥見山(とみのやま)に神祭りの場を設け、そこに皇祖天神を祀りました。
※この皇祖天神は高皇産霊尊とされている。
現在、奈良県桜井市に鳥見山がある。元はその山中にあったが今はふもとに等彌(とみ)神社がある。
(つづく)