神武天皇紀【4】宇陀の罠 | 心の鏡

心の鏡

天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

宇陀に入るまでにヤタガラスを追いかけ難路を率いてきた功績から、大伴氏の祖である日臣命(ひのおみのみこと)は、神日本磐余彦尊から

道臣(みちのおみ)の名を賜りました。

 

それから、話が前後してしまいましたが、海上で案内した珍彦(うずひこ)は椎根津彦(しいねつひこ)の名を賜りました。

 

その頃、宇陀村には「えうかし」と「おとうかし」という兄弟が住んでいました。

まずヤタガラスを遣わして

「今、天つ神の御子がやって来られたが、お前たちはお仕えする気はあるのか?」と尋ねられました。

しかし、兄の「えうかし」は、鳴り鏑(鏑矢)で遣いのヤタガラスを射て脅かし返しました。

その鏑矢の落ちたところを「かぶらざき」と言います。

 

そして迎え撃つために軍勢を集めましたが、大して集まらなかったので、

「お仕えします」と噓をついて、大きな御殿を造り、その中に罠を仕掛けて待っていました。

 

それを知った弟の「おとうかし」は、尊のもとへ知らせに行きました。

※おとうかしは宇陀の水取(もいとり)たちの祖です。

 

そこで道臣命と久米直(くめのあたえ)たちの祖である大久米命(おおくめのみこと)が偵察に行き、えうかしを呼び出し、

「さあどうぞ御殿の中にお上がりください」と勧めるえうかしに

「お前の造った屋敷の中には、まずお前が入ってみせよ」と言って、

太刀の柄を握り、矛を振り、矢をつがえて追い入れると、

えうかしは自分で作った罠にかかって死んでしまいました。

遺体を引きずり出して斬ったので、その地を宇陀の血原と言います。

 

そのあとで、おとうかしの奉ったもてなしの食べ物を、尊は率いる軍勢に与えました。

その時磐余彦尊は饗宴の歌を詠みました。

この久米歌は、のちに大嘗祭でも奏されるようになりました。

 

宇陀の 高城に 鴫(しぎ)縄張る

我が待つや

鴫は障らず いすくはし

鷹等(くじら)障り

 

前妻が 肴乞(なこ)はさば

立稜麦の 実の無けくを

幾多(こきだ)いゑね

 

後妻が 肴乞(なこ)はさば

斎賢木(いちさかき) 実の多けくを

幾多(こきだ)いゑね

 

☆歌の大まかな意味☆

宇陀の高城にしぎを捕る罠を仕掛けたら鷹がかかった、大猟だ。

古女房が獲物をくれと言ったら

そばの実の無い部分をうんとやれ

可愛い女房がくれと言ったら

斎賢木(いちさかき)のように実の多い部分をうんとやれ

 

※この歌に舞をつけた久米舞は、天皇即位の大嘗祭や紀元節に舞われます。現在でも橿原神宮に受け継がれています。

 

さて、磐余彦尊の進軍はまだまだ続きます。 (つづく)