前回、神武天皇が甲寅(きのえとら)の年に東征を開始し、各地を転々とし吉備に進んで兵備を整える為3年留まったところまででした。
現代でも東洋占星術関係はこの十二支十干(じゅうにしじっかん)の暦で占いますから、今年の神宮館暦年齢早見表で見たところ、
現代の甲寅年は昭和49年・西暦1974年でしたね。
そこから45を引くと、1929年・昭和4年で己巳(つちのとみ)年になります。
と、すると神武天皇って己巳年生まれか・・・。
あいにく昭和4年は生まれてないので知りませんが、
1989年・平成元年の己巳あたりはバブリーで日本全体的に金財運に恵まれて景気が良かった思い出があります。
弁財天のお使いが蛇ということから巳の日は金財運の縁日、60日に一度巡る己巳の日はさらに強力ということですが、
神武天皇の命式・ホロスコープってどんなのだったのだろう?
若年期については、記紀には詳しく書かれていないそうです。
そして再び神武天皇紀に戻りますが、
戊午(つちのえうま)の年(西暦 紀元前663年)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は、いよいよ浪速(なみはや・大阪湾)に至り、河をさかのぼって、河内国に上陸。
そこから東に向かって大和国へと進みました。
しかし、「あの生駒山を越えれば目的地の大和はすぐそこだ」といったところで、生駒山周辺の豪族・長髄彦(ながすねひこ)が立ちふさがり、孔舎衛の坂(くさえのさか)今の東大阪市日下町で合戦となります。
(ながすねひこと言うのは、足のすねが長い人だったんでしょうかね?)
「神話のおへそ」の方では、この場面は大阪湾沿岸の青雲(あおくも)の白肩(しらかた)の津に停泊した時に、
登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)が軍勢を集めて待ち構えていて戦いを挑んできたので、
船に納めていた盾をとって戦いました。この地を名付けて盾津と言いましたが、今は(たぶん編纂当時の今ということ)日下の蓼津といいます、と、あります。
この時、尊の長兄・五瀬命(いつせのみこと)が矢傷を負い進軍できなくなってしまいました。
そこで神日本磐余彦尊は
「日の神の子孫でありながら、太陽に向かって戦ったことが天道に逆らって良くなかった。そのために苦戦を強いられている。これからは太陽を背にして戦おう」と誓い、南から回り道をしますが、途中、五瀬命はその時の傷が元で亡くなってしまい、今の和歌山県和歌山市の竈山神社に葬られます。
その後、「神話のおへそ日本書紀編」や「マンガならわかる・・・」では、船団は暴風に遭い次兄の稲飯命と次次兄の三毛入野命は入水(じゅすい)してしまいます、とありますが、
「神話のおへそ」のほうでは、その一文がありません。
さらに進軍して熊野の地に上陸しますが、ここでも熊の姿の神が現れ、あるいは悪神の毒気にあたり、尊や兵隊たちは失神してしまいました。
(つづく)