日神は、天垣田(あめのかきた)を御田(みた)としておられましたが、素戔嗚尊はそこを春には溝を埋め、畔を壊し、
秋に穀物が実ると縄を張って奪い取りました。
また日神が機織りしておられる時に、皮をはいだ斑駒を、生きたままその御殿の中に投げ入れました。
そんな数々の悪行にも日神は肉親としての慈しみで咎めず恨まず、
何事も穏やかな心でお許しになっていました。
しかし、日神が大切な新嘗の祭りを行われる時になった時、
素戔嗚尊はその宮殿の御座の下に密かにをされ、
日神はそれにお気づかれずに座られてしまいました。
そのため日神はお体が臭くなったので、大変お怒りになり
天の窟屋に引きこもってしまいました。
その時、神々は憂いて、
鏡作部(かがみつくり)の遠祖である天糠戸者(あめのあらとのかみ)に鏡を作らせ、
忌部(いんべ)の先祖である太玉(ふとたま)に幣(にきて)を作らせ、
玉造部の遠祖である豊玉に玉を作らせました。
また、山雷者(やまつち)に青く繁った榊で八十玉籤(やそたまくし)を作らせ、
野槌者(のつち)に立派な野の小竹で八十玉籤(やそたまくし)を作らせました。
そしてこれらの品々がそろったので、中臣(なかとみ)の遠祖である天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祝詞(のりと)を奏上しました。
すると、日神は岩戸を開けて出てこられました。
この時、鏡を窟屋に差しいれたところ、岩戸に触れて小さな傷がつきました。
その傷は今も(この「今」とは編纂当時の720年頃と考えられる)残っています。
この鏡が伊勢で祀られている大神です。
その後、素戔嗚尊は、それらの罪で、祓いの為の物を納めさせられました。これは手の爪、足の爪です。
また唾を白和幣、よだれを青和幣として祓いの儀式を行い、
その道理に照らして素戔嗚尊を追放したのでした。