気づくということ | さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

実は、現在、10年間続けてきた専門学校の日本語講師を辞して、バーンアウトの状態です。

 

おととしがピークで、昨年度は、何だか無理やりやっていた感がありました。そもそも、日本語講師もひょんなことから依頼されてやり始めたのがきっかけだったし、時代の状況と相俟って、閉塞感もありながら、講師業を続けていたように思います。

 

そういうときは、必ず何か齟齬があるもの。で、職場で今までならばやり過ごしていたであろうことが引っかかって、仕事仲間とも生徒とも、ガチンコしてしまいました。昨年のこの時期、教室内で転倒して、右手首を骨折したのだけれども、その出来事は、その後の予兆だったかもしれません。

 

夫がいた頃ならば、仕事のことなど愚痴をこぼして、聞いていない時もあったけど、なるほどと思う言葉を投げかけてくれるときもあり、それが的を得ていなくても、話すことで矛先を収めることができたように思います。だから、尚更、夫がいないことが頼りなく感じられました。

 

ただ、そういうときに自分の支えになってくれたのは、その強気がちょっと苦手だった女性の同僚の教師でした。

 

もっとも、そうは言いつつも、日頃から、お互い励ましあったり、生徒や学校側に対して共感するところもあったし、いい意味で刺激しあっていたと思うし、親しくならない程度の距離感が絶妙というところもありました。

 

だから、落ち込んだときに、全面的に自分を信頼して味方になってくれたのはとても有難かった。

 

結局、ガチンコした仕事仲間も、最終的には折り合ってくれたし、生徒に関しては、学校側から最終通告みたいなのがいったようなので、辞めるときにはすっきりした状態でした。

 

でも、やっぱり、そういう嫌なことは経験しないに限るとつくづく思いました。もっと早くに、いろんな兆候に気づくべきでした。でも、現実に生活を送っているときには、送ることに一生懸命で、なかなか気づかないものです。

 

そう・・・、気づいたときは、いつも遅いのです。何かが終わった後に、気づくものなのです。認識とはいつも遅れてくるものなのです。夫のことにも言えるのだけれども。

 

 世界がいかにあるべきかを教えることにかんしてなお一言つけくわえるなら、そのためには哲学はもともと、いつも来方がおそすぎるのである。哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現れる。・・・・・哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがくとき、生の一つのすがたはすでに老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生のすがたは若返らされはせず、ただ認識されるだけである。ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくると飛び始める。(GWF.ヘーゲル『法の哲学』、藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラッシックス)

 

物事が終わらなければ、それを体系化することはできません。気づくこともそうです。嫌なこと、悲しいこと、失敗・・・そういうものを経て物事が一区切りつかなければ気づきません。後になってああしておけばよかったと、気づきは遅れてくるのだけれども、それでもふくろうは飛ぶのです。

 

たとえそれが遅れてきても、気づきがあるのとないのとでは、やはり違うと思うのです。遅れてきた気づきこそが知になる。だからミネルヴァのふくろうはたそがれがやってくると飛び始める。

 

夫が亡くなって気づかされたことも、遅れてはきたけれども、気づかなかった自分を責めるよりも、気づいたことにこそ意味があるのだと思うし、思いたい。

 

それに、同僚の有難さもしみじみと感じることができました。

 

今、バーンアウトの状態だけれども、改めて、自分を見つめ直す機会だと思うことにしました。うだうだしているけれども、最低限のことはしていて、最低限のことしかしていない自分もどうかなと思っていたけれども、できたからいいかと思うようになり始めました。

 

そろそろ、かな。