刻む時間と流れる時間 | さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

何も語らずとも、ゆったりと、ともに時間を過ごす。夫とそういう時を過ごすとき、本当にしみじみと、一緒になってよかったなと心底思いました。けれども、大体は忙しさに紛れ、限られた時間のなかで、そうした時間の過ごし方も少なくなっていったように思います。

 

今思えば、時間が限られているのではなく、時間を限ってしまった自分がいました。ただ、私は限りつつも、やりくりがある程度できた性質だったが、夫は、自分で時間を限ることはありませんでした。特に、仕事はそうでした。仕事は彼にとって自分の興味と重なるものだったから、時の刻みとは関係なく、ゆったりとした時の流れで、仕事を熟成させたかったのだろうと思います。

 

しかし、彼の時間観念は、合理性や効率を求める世の中の時の刻みとは乖離したものでした。世間的には、時間がかかって要領が悪そうに見えた夫。正直、私もそういう風に見ていました。だから、もっと大きな時の流れのなかで、見守ってあげることはできなかったのかな、と今さらながら思います。

 

もっとも、そういう彼の不器用さもまた、私にしてみれば、愛おしかったのも事実です。

 

「~から」とか「~まで」といった点としての時の刻み方は、時のもつ流れといったものを分断するものなのだと思います。そして、人間にはその人固有の時の流れというものがあります。流れも一様ではなく、澱みもあれば、急流もある。時の流れは、情状性とつながっていて、だから、気分が乗るとか乗らないとかあるのでしょう。

 

純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の傾向性もなく、数とは何の類縁性もないような質的諸変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう。(H.ベルグソン「時間と自由」、中村文郎訳、岩波文庫)

 

つまり、時とは等質化された点のようなものではなく、濃淡のある連続―一様ではない流れだということです。

 

意識は、区別しようとする飽くなき欲望に悩まされて、現実の代わりに記号を置き換えたり、あるいは記号を通してしか現実を知覚しない。このように屈折させられ、またまさにそのことによって細分化された自我は、一般に社会生活の、特に言語の諸要求にはるかによく適合するので、意識はその方を好み、少しずつ根底的自我を見失っていくのである。(H.ベルグソン、同)

 

一分、一秒と時を刻む生き方は、自我をも細分化してしまいます。記号とは無機質なものですが、時間の単位もそうした記号のひとつです。社会では、記号を用いたほうが効率的だろうし、すべてのものをコントロールしやすくもなります。

 

たとえば、「~から」と「~まで」と決められた時間内で、力を発揮することができる能力も、穿った見方をすれば、自分をコントロールさせているからこそできることかもしれません。もちろん、社会で生きるためには、そういう能力は必要だし、否定はしません。

 

ただ、そうした時の刻みのもっと深い次元で、ゆったりと流れる自分固有の時間があるということです。細分化された時の刻みは、本来的な時間を分断してしまいます。時間とは自己そのもの。だから、自己をも分断することになりかねません。

 

死はひとつの時の刻みであり、生と分断されたものなのでしょうか。死もまた悠久の時の流れのうちの一つの経過であり、生と連続したものではないかと思います。人間固有の時間流は、その悠久につながるものだと思うから。

 

せめて、彼なりの固有の時間に対して、もっと理解をしめしておけばよかったと今さらながら思います。彼は、もっと深い次元で生きていたはずなのに・・・

 

せめて、これからは、人それぞれの時間流を大切にしていきたい。そして自分の時間流も。