さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

若葉が輝く季節になると、哲学と出会ったあの日を思い出す。

 

そう、妊活を断念して、ぽっかり空いた穴を埋めるようにして、哲学を勉強しようと思い立ち、カルチャーセンターから、大学の聴講生として哲学の講座を受講し、本格的に哲学の言葉に触れたあの日。その言葉にある何かが、わたしの心を、いや魂を揺さぶり、世界がこんなにも美しく輝くのを観た日。

 

あの日のことは、終生忘れることはないだろう。

 

これほどまでに、生命をきらめき輝かせるもの、それは見えないものだけれども、それを語ろうとする哲学の崇高さに、やられてしまったのだ。

 

その日は、もう、脳の快感モードが入りまくり、全身、多幸感の塊みたいになっていた。

 

哲学のもつ力の凄さに、圧倒されたのかもしれない。崇高とは、カントによると、その存在感に、生命を阻止するような畏怖を感じた後に、湧き上がる快感らしいのだが、屈服したというより、やられた!という感じだろうと思う。

 

そのときの感覚が、哲学をするわたしを支え続けている。大学院に進み、後期博士課程では、ゼミでしごかれ、わかったつもりでいて、次週のゼミでは、考えが雲散霧消して、論文を書こうとしても、言葉が書いているうちから逃げて行き、書いても表面的なことをかすっているだけ。

 

途中でやめようかと思ったこともあり、でも、やめるのも地獄、進むのも地獄ならば、進んだほうがまだいい、なんて、悲壮感ありありだった時期もあった。

 

特に、夫が亡くなってからは、夫のためにもやらなきゃ、という義務感が前に出て、余計、自分を追い込んでいたと思う。

 

ふっと、哲学が面白い、って思えたのは、後期博士課程を単位取得(といえば聞こえはいいけど、満期退学)してから。

 

それも、勤務先で、すったもんだがあり、そのときの怒りのエネルギーが転化したのか、哲学がわたしを呼んだのか(笑)、今まで頭ではわかっていたけど、本来ならば、のっぺらぼうであるこの世界に、切れ込みを入れる瞬間を体験し、世界の構造というか世界をとらえる考え方そのものが、稲妻のようにびびっと走るようにわかった。

 

そうなると、今まであやふやだったものが、面白いほど、するすると解けてきて、俄然、わたし書ける!と一気に論文を書き上げた。さる哲学機関誌に投稿するのが目的だったのだが、書きながら、正直、採用される確信がどこかにあった。

 

案の定、採用されたのだが、採用通知が迷惑メールに入っていて、連絡がないので、携帯にかかってきて、知らない人からの電話で、警戒感ありありというおまけまでついて、笑。

 

一昨年は、念願の本まで書けた。ブログはしばらくお休みしていたが、書ける、ということが、わたしのバロメーターのようなものになっているようだ。

 

また、なにか書こうと、最近思い始めている。

 

夫が生きていたら、本も書けなかっただろうな、とつくづくと思う。論文発表し学会発表もして、そして、その後にまた論文を発表して、なんて思っている矢先に、夫が逝ってしまって、大学院どころではなくなった時期もあった。

 

今からだったのに、と夫を責める気はなく、むしろ、そういうふうにしてしまった自分の在り様を責めた日々だった。

 

今では、これまでの体験一つ一つが、行く道を示す指標となっていたのだと思える。

 

自分でどうすることもできないことが起きるのは、確かに不条理にみえるけれども、だからこそ、自分を超える何かが、その先に起こるのだろう。それも、ある意味、何かからやられているんだろうけど、笑。

 

この季節、毎年、そして、今日も、光に輝く若葉を見ながら、同じ光景でも、それでも、いつも素晴らしく、またえも言われぬ心地よさを覚えるのはなぜだろう。実は、それはひとつの出会いであり出来事だと思う、自分を超えた何かとの、そしてそれを見出すことができた自分との、そして、二度と訪れない「今」との。

 

 

                      (雲仙の旅館にて)