さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

朝、寝坊して雨戸を開けたら、道路の向かい斜め前の家の屋根の上から、ちょうど良い角度で、太陽がこちらを向いて輝いていた。

 

早くても遅くても、見ることのできない光景。思わず、手を合わせて、「有難うございます」と拝礼しながら、お日様の光を浴びる。額に陽光のぬくもりを感じて、ああ、すべては守られている、と思った。

 

何度も何度も「有難う」を繰り返した。

 

日はまた上る。あの日も、あれからも、どんなに絶望のどん底に陥っても、日は変わらず上るのだ。そして、そういう日に限って、空は雲ひとつないお天気だったりする。

 

なぜ、こんなに悲しい日に、何事もなかったように、すべてを洗い流したような晴天なんだろう、と思うほどに。

 

その心情と相反したお天気が、自分には眩しかったり、でもどこかその日の光で、わたしの罪さえ清めてくれるようなそんな感じがした。

 

けれども今は思う、罪だなんて!わたしは別に悪いことをしたわけじゃないのに、なぜ、澄み渡るような青空に気後れしていたんだろうって。

 

お日様は、ひたすら、わたしを照らしてくれていたことに気づいていなかった。

 

そういうことがあったからこそ、余計、今、日の光を浴びて、「有難う」と繰り返し言えるようになった自分を愛おしく思う。

 

うん、わたし、ここまでよくやってきたなって。

 

今日は、午後からは曇り空になって、当たる風もいきおい厳しくなる。

 

それでも、いつしか、春は巡ってくる。日は上り、沈み、また上り、15年目の春が巡ってくる。