私の3.11(東日本大震災の記憶)
これは、以前に書いた記事ですが、
忘れないように、一部加筆しながら再アップです。
今日は、3月11日。
東日本大震災の日。
大震災の日は、私は千葉に住んでいました。
主人の奈良への転勤が、前の年の11月に決まっていました。
息子 小4、娘 幼稚園の年長が終わろうとしている頃でした。
子供たちの幼稚園と学校の事を考えて、3月の卒園、修了式を終えて
私と子供たちは引っ越す事にしていました。
それまでは主人は単身赴任。
そんな状況での震災でした。
あの震災の日の事は少しずつ忘れていくことも多いけど
忘れてはいけない、そう思っています。
あの日は金曜日でした。
私は娘の幼稚園の謝恩会役員をしていたので
たまたま練習で、娘と一緒に幼稚園のホールにいました。
ただ事でない揺れに、練習をやめ、
各自上の子や家族のお迎えに行くことになりました。
確か、震度5強か6弱だったと思います。
何もないホールだったため
物が倒れるとか、壊れるという事はなかったけど
天井のエアコンのフィルターのカバーが
パカパカとはずれていました。
地震の多い関東でも、さすがに尋常ではない揺れだったのに
この状況で「謝恩会の練習どうする?続ける~?」なんて言いだす人もいて
正直、危機管理能力の低さに驚きました。
幸い幼稚園と小学校が近かったので娘を連れて、息子を迎えにそのまま小学校へ。
着の身、着のままで校庭に避難していた子供たちは、
上着も来ていなくて寒そうでした。当然、上履き。
急なことで、学校側の対応がなかなか決まらず
お迎えに来ている父兄がいても、すぐに帰してもらえず
1時間以上、校庭で待たされました。
その間にも余震や、別の地震で何度も揺れたのですが
大きな地震の時は
ここでも学校の窓ガラスがたわむので、本当に怖かったです。
あんなにたわんでも、ガラスって割れないもんだな~なんて
変に冷静な自分もいたりして…
酔いやすい子は、何度も来る地震の揺れと緊張で
吐いている子もいたほどでした…
奈良にいる主人との連絡は、
私からは何度連絡しても、繋がらなかったのですが
主人からの電話はたまたま、すぐに繋がったので、
こちらの状況だけは伝えることができました。
ただ、主人の音声は全く聞こえなかったので、
こちらの声が聞こえてると信じて
「娘と一緒に、息子を迎えに来ています。
みな怪我もなく大丈夫です!」と言って切りました。
後から聞いたら、聞こえていたとの事でした。
1~2時間後、子供たちと一緒に家に帰ってきたのですが、
テレビ台や洋服ダンスが何十センチも動いていたり、
食器棚の中のものが、棚の中で割れていたりしていました。
すでに引っ越しの準備を始めていたので、
真っ先にしまい込んでいた避難グッズをとりだしながら、
しまうのは最後だったな…と反省
夜は、ダブルベッドに三人で洋服を着たまま
靴や上着も近くにおいて、いつでも逃げれる状態で寝ていました。
テレビをつけたまま寝たのですが、ずっと余震警報が鳴りっぱなしで
その度に子供たちの頭に布団をかけて、
私が、子供二人を守らなければいけない!という気持ちでいっぱいでした。
翌日は土曜日、単身赴任の主人が駆けつけました。
何もしないのに、何も変わらないのに、
いるだけで安心するって事があるんだな…と、気づきましたね~
この時から、主人へのありがたさや家族の大切さを痛感し
幸せの基準が私の中で確実に変わりました。
そして、震災から約2週間。
計画停電やら、パンや水、トイレットペーパーが品薄になったりを経験し
修了式の翌日、予定通りに奈良に引っ越しをしました。
ガソリン不足なんて言われていたのに、
何事もなく予定通り引っ越しできて、ラッキーでした。
私が住んでいた松戸はその後、
放射能のホットスポットと言われ、線量が高い地域が多く
小さい子供がいる家庭は除染対象地域になっていました。
子供がいる家庭は、市によって
庭の土の天地をひっくり返す?
表層を自分の庭に埋めると言うのかな?
と言う処理をしたようですが、
住民がいなかった私たちの家の庭はそのままです。
少しずつ記憶が薄れていくけれど
絶対に忘れてはいけない事だと思うので、
毎年、この時期に載せています。
さぁ、今年も避難袋の中を確認しよう!
そう思うのでした。
そして、また私たちは、千葉に戻ります。