佐賀の母に会ってきました。 | NIKKA-BOKKA 

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子育ち講座を修了した母親の実践や気づきを綴っています

3月31日(金)

 

マスクを外せるくらいに世の中が少し和らいだので、

ふと思い立ち、佐賀の母に会いに行ってきました。

ゆっくりと会うのは3年ぶり。

 

日頃デイサービスを利用している母にとって、

県外の私が会いに行くと、母自身に熱がなくても

デイサービスを1週間休まなければならないという

よくわからないルールで、母自身のペースが崩れてしまったり、

母自身の体力気力がたったそれだけの中断で衰えてしまう心配もあり、

ずっと会うに会えない状況が3年も続いてしまったのでした。

 

「お前が帰ってくるとは久しぶりたいね~。」

母が何度も何度もそう言って、私の顔をまじまじと見ました。

 

ふふふ、言われるとは思っていましたが、

「あんたのその白髪頭はもう染めんとね?」いかにも気に入らない様子。

「うん、染めんと。」とニッコリ私。

その会話を何回も繰り返しながら、ようやく3日目。

どうやら見慣れてしまったのか、

「うん、あんたのその白髪頭もよかね~。うん、よかよか。」と母。

ようやくご承認いただいたようでした。苦笑

 

もう90歳。

きっと時間の感覚ってのがなくなってきているんだなぁ。

そう感じる場面がたくさんありました。

 

薬のせいもあって、一日に何度もうとうと。

そしてふっと目が覚める度に、

「あ、あんた来とったねぇ?」(いや、昨日からいますけど?)

 

「あら、薬ば飲まんばやったね?」(今さっき飲んだばかりなのに?)

 

そして、ふと思い出したように話し始める話が、

数パターンの同じ内容の昔の話。

それをいつも聴かされている妹は、食傷気味の様子で

私に小さい声で「またこの話。もう何十回目やろ~~~。」とあきれ顔。

 

そして、久しぶりに帰ってきた私の顔を見る度に

「おみやげば、こうて帰らんばいかんやろ?」

「おかねばやっけん、こうてきんしゃい。

そして、はやめに宅急便でおくっとかんね。」

と母は寝言のように繰り返していました。

 

私は、

「お母さん、もう子達も育って東京におるし、

お義父さんもお義母さんも亡くなっておんさなかけん(いないから)、

おみやげはもういらんとよ?(いらないんだよ)」

そう何度か母の耳元で言ってみましたが、

 

途中から、

今大事なのはそんなことを母にわからせようと説明することではなく、

30年も変わらず、遠く千葉に嫁いだ娘の私が不憫な思いをしないようにと

ず~っと心配をしてきてくれた母のその気持ちを受け取ることなんだと気づいて。

 

「うん、うん、おみやげばこうていくね。ありがとうね、おかあさん。」そう伝えながら、

椅子に埋もれてしまいそうな小さく丸まった母の背中をゆっくり撫でました。

 

実家に滞在中、

ケアマネさんとの月イチの面談や、

少し遠いけれどあたたかい診察をしてくださる専門医の先生の診察日にも、

妹の隣に私も居ながら、その様子を知ることができました。

 

ギリギリまで、自分の家で暮らしたい。

それが母の意思。

 

そこにある程度の不便さが母自身の日々の暮らしに生じていることは事実です。

でも、そこをどうにかしてでもこの家に居たいという母の意思だけは、

いつまでも揺らぐことなく、しっかりしていて。

妹の「うんもー、そこだけはぜったいボケんとたい!」という言葉に

私思わず吹き出して、ハハハハハ!と大笑い。

 

「まあ、しょんなかたい。(仕方がないね)」

「うん、しょんなか。(仕方がない)」

 

その代わり、母がひとり暮らしを続行するということは、

「自分のことは自分でやろうとする」という気持ちと行動を

あきらめないようにしなくてはならない毎日である必要があるわけです。

 

妹が「お母さん、いつもどおりに自分でせんばよ!」

「私達がやってあげるのは簡単さ、でもそれに慣れたらお母さんひとりの時困るやろ?」

「はい、自分で(歯ブラシ)持って。」「はい、自分で(薬の袋)開けて。」

「はい、自分で(紙パンツ)あげて。」「はい、自分で(お布団)めくって。」

そうやって妹は母に声をかけ、指示を出していました。

うっ・・ん、うっ・・・うんっ、母は唸りながら一つ一つの動作を自分でやろうと懸命です。

そんなに頑張らなくてもいいのに・・・と私はそんな母を観ているのさえしんどくなりました。

 

やってあげるのは簡単。そう、その通りで。

久しぶりに母に会う私は、母にやってあげたい!とつい思ってしまう。

でも妹が私に「ダメよ、姉ちゃん。」と言いながら首を振りました。

 

たしかに・・・母がこれをすべて諦めたら、即寝たきりになるんだろうな。

 

「そっか・・・そういうことよね。」と私が妹にしみじみ言うと、

「そっ!そういうこと!それができんってことは、もう施設を考えなね?ってことやけん。」
と妹は私を諭すように言いました。

数年会わない間にすっかりたくましくなった妹の姿に、私は頭が下がる思いでした。

 

どんなに時間がかかろうが、母は母のペースで生きている。

若い人のように、健康な人のように、さっさと動くことはできないけれど、

ゆっくりゆっくり這ってベッドまで行く、トイレまで行く。

くねくねと身体をよじりながらシャツを着替える。

その合間合間をヘルパーさんに手伝ってもらったり、

訪問看護さんに体調をチェックしてもらったり、

食事は週のほとんどを刻み食の弁当を配達してもらっている。

そして、週3日は午後数時間のデイサービスにも通っている。

たくさんの方の力を借りながら、

 

母は「こがんして(こうして)自分の家におらるっけん、あたしゃしあわせておもーとる。」

と、私に何度も何度も繰り返し言いました。

 

「そうやね、お母さんこがんして自分の家におらるっけん、しあわせよね。」

と、私はその度に母にまねで返しました。

 

「私の」母だと思うと、いろんな考えが頭をめぐり、

ああしたら?こうしたら?と母を体裁よく整えようとして「私が」苦しくなるけれど、

母には、母の人生があるんだと、母のいのちを母らしいままにしておこうと思うと、

 

よかよか、お母さんがそう思うなら。

よかよか、お母さんがそう願うなら。

ちょっと不便でキツイこともあるやろうけど、

そこも含めてお母さんがそう最後まで生きたいんやもんね。

 

と、結局は90歳の母の今を受け止めながら、

また私は私で、自分の日常に戻ってきたのでした。