三笠宮寛仁親王が逝去された。長年にわたる障害者などの福祉活動をされてきたご功績はこれからも忘れられることがないだろう。心から哀悼の意を表したい。

1991年以降、喉頭ガンに伴う手術や治療を16回もされたそうだ。長い闘いだったと頭が下がる思いだ。また、2007年にはアルコール依存症を公言して依存症への理解を進めた功労も忘れられない。皇族の中では異色の存在だったと思うが、人気があった親王だった。
病気の公表はグレーなこどからだと思っていた。しかし、親王は快活で苦痛を笑いとばしていたように私たちからは見えた。

心の中もそうであれば、素晴らしい闘病だったと思う。精神病はコンプレックスを持ちやすく、つねにそのことを気にしすぎる傾向にある。時々は、親王のように笑いとばすようなユーモアのセンスを持ちたいものだ。先行きを悲観して心がすさむよりは、自分へのカンフル剤になってくれる。

コミュニケーションの手段として、自分を自虐的に見せて、周囲をなごませることがある。それ自体、立派なユーモアセンスではないだろうか。その時は満足感と自分への自信をもてるはずだ。

悲嘆はたやすいことだと思うが、つねに同情の対象にはならない。ユーモアは周囲は人をなごます効果がある。さらに自分を上手に表現できる手段だ。自己観察があってユーモアは成り立つ。悲嘆より客観的な自分を発見できるのだ。

ユーモアを生み出すには、ポジティブなマインドが必要だ。お笑いの才能がなくても、自分の中で否定していることをポジティブに表現して、笑いとばすことだ。

時にはなぜそうするだろうかと、落胆するときはある。ただ、客席からピエロを見ているのと同じだ。ピエロは緊張を強いられる観客を和ませる唯一の存在である。ピエロ役が適役だと意識しながら、ユーモラスに表現する。ピエロ役の重さがわかるだろう。

いつもとは言わないが、病気をユーモラスに表現すると周りの理解も得やすいだろう。一番は自分の意識が外に向かって解放されていくことである。ポジティブを意識して手をこまねいているときは、ユーモラスに表現することに気を向ける。それは、ポジティブな状態なのだ。



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