京都から帰京中。書いてるうちに、またマニアックな話に。1%の人のための、お話し〜。

解消、とは、治癒とは、外側からの介入が、内部に入り込むことではない。外部の情報により、上書きされるのではなく、外部から入り込んだ自分のものではない異質な情報が、外に排出され、外に帰っていくこと。

外からの情報が抜けていくとともに、内側の深くに備わる自分の生命力で内側から満ちていくこと。

傷や歪み、それは、外から入り込んだ衝撃のエネルギーを保持している。解消とともに外に還っていく。

それまで、自分の内部に留まっていた、歪み。外部からやってきて、自分の一部としてアイデンティティーとして、保持していた。

ソレがなくなる。

慣れるまでは、不安?怒り?悲しみ?感情が出でくることもある。その不足感を補うために、考える。不安を埋めようとする。過去に居る、あるいは未来の不安を。現在にいない。

なくなって抜けていったものの埋め合わせをするために、考える、対策する、思考する。

力を行使する。身を守る、勝つ、生きていくために、力を欲する。

力を欲するとき、取り込まれる。現実ではなく不安による恐怖、そのために、力を欲する。つけ込まれる。操られる。力を使っているつもりでいつしか力に使われている。

なにが間違いだったのか?どこでボタンのかけ違いが起こったのか?

恐怖。

何も力も作戦もなくなった時、自分は大丈夫なのだろうか?生き残れるのか?守れるのか?

不安、

力を欲する、そしていつしか力に操られる。

ジツは、何もなくなったとき、全てがある、としたら❓そのとき、その瞬間、力のないワタシの埋め合わせに外部のチカラを取り込み、力の行使により現実を動かそうとする必要はなく、そのとき、その瞬間、そして、いつでも、ワタシに不足はない、としたら?

しかし、それは、ワタシにあるのではなく、すべては、そこにあり、いつでも、用意されている、手を差し伸べられている、としたら?

知らんけど。でも、少なくとも施術の世界では真実のこと、全ては、常に、そこにある。ワタシの個、我、ワタシの能力には、まったくない、頼るべきもの、頼れるものは、ワタシの能力にはない。そこに、ある、すべては、目の前に、そこにあり、大丈夫、ソレに気がつけば良い。目の前にある、ソレに気がつく、全ては用意されている、常に手を差し伸べられている。

考えると、わからなくなる。思考すると、見えなくなる。気がつかなくなる。なぜなら、思考は現在にいない。目の前に差し出されているものは、現在にあり、思考では捉えられない。現在にあるものは、考えることはできず、ただ気づくことができるだけ。

そのとき、すべては用意されており、大丈夫。埋め合わせる必要はなくなる。すると、手放せる。

自分を埋め合わせていた異物は去り、現在に生きられるようになっていく。歪み、傷の、もしかしたら、カルマの?解消とともに。

ハートが開いていく、世界が変わっていく。

それが、カラダから見た現実のひとつの側面。神戸でのセッションでは、僕自身にもそんな変化が起きていました。

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そして私はいつか

どこかから来て

不意にこの芝生の上に立っていた

なすべきことはすべて

私の細胞が記憶していた

だから私は人間の形をして

幸せについて語りさえしたのだ


(谷川俊太郎『芝生』)

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この世に来た時に、すべてを(頭は)忘れてわからなくなっているけれど、頭はどうやっても現実を把握することはできないけれど、

なすべきことは、わたしの細胞がすべて記憶している。

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