ちょっと関西の方に行ってきました。行きたかった山があったのです。

”ある種の”山を歩いていると、感覚が変わっていきます。何かを伝えられるような、”儀式”?のような。

だからこそ、行きたかった山があったのです。

でも〜、断念。その断念の仕方も残念。

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東京へ帰ってきて、やっぱり感覚が変わっている。
山に行かなかったのに、変わっている。

施術も変わっている。

場所が、やっぱりすごいのかもしれない。

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施術をしていて、、。”憑き物が落ちた感じがする”というコメントをいただきましたが、初めは何だかへんだなというものが、施術の中で、あの場所たちに助けられながら、浄化されていったみたいな気がする。

といっても、何か見えるとかそんな能力はないんですが、体の液的なフィールドが澱んでいたりするのが、どこかからか光が差し込んでくるように、解消が起こっていくのはわかります。淀みが消え、透明に、広がり、呼吸が始まる。

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そこで、今回行ってみて、施術してみて、
クリアに感じることは

人は、”つながりを取り戻すために”、ある特定の場所を訪れることがあるのだと思う。

それは、もともともっていて、いまもあるのに、切れてしまっていたり、チャンネルはあるのに、意識が途切れて流れていなかったり、

それは、大切なモノで、生かされているもの、生きていくのに生きていくことができるためのもの、それを、みなもっていて、かつての人たちはもっていて、現代の我々は忘れて失っていて、切れてしまっている。だけど、いまここにある。

そのつながりをつけるために、訪れる場所。

そんな感じが、施術の世界と、ちょっと似てるというか、施術って実は根本のところではそういうことが起きているのだろう、と思うのです。といいますのも、そういう、外からのつながり、大切な生きるためのもの、が、施術の途中で外側からつながりをつけていくような、クリアなつながりの中で、フィールドが淀みを解消し生き返っていくときに、感じるものを、その”訪れた場所の助け”がサポートしている、という比喩もまあ、できるな。という感じ、がするから。

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で、憑き物が落ちる、について、ちょっと補足で。

憑き物を落とす、となると、それは、そこにとどまり次に憑くものを探してしまうのだろう。でも、そういうやり方ではない、やり方。

それは、施術の世界では、そういう類のものの入ってこられない、静寂で清浄なところで施術をする。(←自分の意図は使わない。神様の意に沿うこと。)やりたいことや要求、そういうエモーション(感情)の介入するところでは決してやらない。すると、悪い影響など何も起こらない。そして、、その存在が、帰っていけるように、道を開けておく。わたしたちは、何もしない。彼らが、帰っていくかどうか、本当のことはなんだったのかを選択し帰っていくことを選ぶだけ。2〜3回施術したら大概は帰っていくよ、と聞いたことがある。

彼らも元々は光の存在、彷徨うのではなく、元来た場所、光への道を開いておき、帰っていくことを選択する時が来たら帰っていく。

最近、チベット仏教のこと知るようになって聞いたのだけれど、全ての存在、人間、動物、虫、霊などなど、、あらゆる存在は、苦しみから離れ幸せになりたいと願っている。悪霊も含めてそう願っている。全ての存在が苦しみから離れ、幸せになりますように、と。彼らも光に帰っていきたいのだ。

そして、神道の宮司さんの本を読んでいて、思うのは、、神様の意に沿っているのかどうか。

自分の都合、自分のやりたいこと、自分の浄化、憑き物を落とす、、。とやると、たぶん、そのつきものは、光へ帰って行かれない。上へ顔を向けることを知らないまま。自分も含めた循環のためには、自分の都合、自分の思い、は持ち込めない。そうすると、分断が起こり、つきものはそこにとどまるしかなくなる、次に憑く。ではなく、全ての存在を含めて、循環していること、、それは、神様の意に沿っていること=自然界の秩序に沿っていること、、すると、全てが矛盾なく、分断がない。調和、そして、光に帰っていく。

そのとき、神様も助けてくれているような気がする。上に帰っていくことを。