25-10-27(月)
慈しみ深き、友なるイエスは、
我らの弱きを、知りて憐れむ。
悩み悲しみに、沈める時も、
祈りに応えて、慰め給わん。
来週の月曜日、文化の日に我が逗子教会では「オータム・フェスタ」と言う文化祭(バザー?)が行われる。この6年くらいはコロナ禍の影響で、文化祭を開催することが出来なかったが、今年から再開されるらしい。お汁粉が振る舞われるなど食べ物も提供されて、全てはコロナ禍以前に戻るそうである。このお祭り(?)では賛美リレーと言うものが行われて、聖歌隊の歌やマンドリンの合奏、オルガンの演奏と歌など3時間にわたって神を賛美する音楽を続けるという企画がある。私も高校を出て廃人のような浪人生活を送っていた時、母に薦められてフルートを習っていたので、申し込みをした。
私は実はこれと言って好きな讃美歌と言うものはないが、「慈しみ深き」は教会関係者でない人にも広く知られているだろうと思って選んだ。原題は“What a frend we have in Jesus!”で、Joseph Scrivenと言う人(どういう人か全く知らない)が1855年に作った曲らしい。作詞家は恐らくアメリカ人だろう。この時代のアメリカはヨーロッパから見れば田舎であったが、道徳的・倫理的にこの上なく高い水準にあった。トランプ大統領の”力“でアメリカが再び金持ちになっても私はそれを偉大とは認めないし、下らないと思っているが、南北戦争から西部開拓時代のアメリカの文化は尊敬に値するものがあるように思っている。
話しは変わるが、30年ほど前上智大学の心理学科で教鞭をとられて夭折された小川捷之先生のことをご存じの方はもう少ないかと思う。上智大学では霜山徳爾先生が長い間臨床心理学の主任教授を勤められたが、昭和から平成にお代替わりする直後に定年ご退任された。こういう大物教授が退任されると、後任の先生をどうするかで結構もめるものである。霜山先生は上智大学の教え子から誰か、とお考えになっておられたようであるが、それをすると学科内の結束が乱れる。いろいろな内紛があって、結局横浜国立大学から小川捷之先生を招聘することとなった。あの時には精神医学の主任教授が福嶋章先生(フロイト派)、カウンセリング心理学の主任教授がクスマノ神父先生(ロジャース派)だったので、ユング派から誰かと言うことで小川捷之先生に白羽の矢が立ったのだろう。
一言でユング派と言ってもいろいろな方がおられる。(特にユング派の場合これが顕著なのだが)あれは一種の神秘主義であって、神秘主義(広く目に見えない霊のような存在を信じる)のは悪いことではないが、それが山中康裕先生のような深い癒しをもたらせる力を持った人から、カルトのようなものに堕している人まで玉石混合である。ユング派の臨床家としてやってゆこうとする人はよほど気を付けなければならないことを一応警告しておく。小川先生の場合かなり“怪しい”人で、土居健郎先生あたりからもかなり批判されていた。小川先生がユング派のシンポジウムに土居先生を招待した時にも「ユングを読むには直観力が必要であるらしいが、私は直観力が乏しいので、ユングのことは良く解らない」と土居先生は敢て苦言を呈したのであるが、小川先生にはその遠回しの皮肉が解らなかったらしい。
何にしてもあぶなっかしい教授を上智大学は抱えこんでしまった。もっとも小川先生が上智大学にいらした動機の一つに「この危うさを癒して欲しい」と言うものがあったらしく、早速イグナチオ教会の神父さんに接触して、カトリックの修養会に参加した。そこで「慈しみ深き」を歌っている最中、小川先生はいきなり泣き出してしまった。それを見た神父さん(小川先生の葬式をしてくださった方)は「この人は遠からずカトリックに入信するだろう」と直感的に感じたそうである。カトリックの教えにのめり込んでいった小川教授は、しかし不摂生な生活を辞めることはなかった。お亡くなりになる直前、彼はカトリックの洗礼を受けて、塗油の秘跡(病人の苦しみを和らげる効果があると信じられている)も受けて、帰天された。聖イグナチオ教会で大々的に行われた葬儀の後、心理学研究室に行くと、河合隼雄先生、大塚義孝先生、山中康裕先生と言う臨床心理学の世界の重鎮が集って小川先生の思い出話しに浸っていた。この席に霜山徳爾先生がおられなかったのが、全てを物語っている。この中の精神科医の方が、「小川先生にはあれだけ注意したんだけれど、聞く耳を持たなかった」と嘆いていらした。
要はカトリック(でもユング派でもいいのであるが)でも霊的に深い人もいれば、ただの狂信者もいるということである。小川先生は「いつくしみ深き」のどこに感動されたのであろうか?また何故それを見ていた神父さんが「小川先生はカトリックになる」ことを予見できたのか?また来週私が演奏する「いつくしみ深き」は聴衆にどんな影響を与えるのか?全ては神のみぞ知ることなのだろう。