26-5-22(金)

 人間は皆無限な存在(不老不死)ではない。しかし同時に永遠を希求する思いが与えられている。この矛盾が、人間の文化・芸術・科学などを発展させてきた。この年になるまでそれがはっきりとは解らなかった。

 今から100年ほど前、アメリカのテネシー州(狂信的なキリスト教の一派(いわゆるファンダメンタリスト)の影響が強い)で「公立学校で、進化論を教えるのを禁じる」法律があった(らしい)。そんな中、生物学の臨時教員ジョン・スコープスが「この法律を破ったらどうなるか」面白半分に学校で進化論を教えたところ、違法行為とのことで裁判にかけられた。これが高名な「猿裁判」(1925年)である。裁判は弁護側(クラレンス・ダロウ、進化論擁護派)も検察側(ウイリアム・ジェニングス・ブライアン、聖書に書かれている、「神が人間を創造した」と言う記事を信じる側)も一歩も譲らず全米を沸かせる大問題となった。我々日本人にとっては笑い話しとしか思えないが、アメリカと言う国はこういう裁判が実際に起きてしまう国であることは読者諸兄も知っておいた方がいい。アメリカでも進歩的な人はこれを一種のエンタテイメントとして見ていた可能性もないとは言えないが、私が学生時代に教会に通っていた時に、アメリカ人宣教師が「お前は恐竜の実在を信じるか?」とか変な質問をされたことがある。恐竜のことは私は関心がないし、良く知らないので、いい加減に答えておいたが、彼らのつもりでは私に踏み絵を踏ませたかったらしい。

 私も人並みに日本の公立中学校、公立高校に通ったが、進化論についてもアダムとイブの話しにしても聞いた記憶がないので、どういう教育をされたか全く覚えていない。特に高校は受業中寝ていたか、ほぼ学校に行かなかったし、生物の教科書も捨ててしまったので全く記憶にない。今ではアフリカ(?)で初めて人間性を持った遺伝子(女性なのでイブと呼ばれている)が大勢の男性と関係をもって、それが人類の先祖だと考えられているようである。その前は北京原人がどうこうと言う説があったが、これも良くしらない。ただ、そういう遺骨(化石)がヨーロッパではあまり発見されず、アジアやアフリカで発見されるのは、何か人種差別的な意図があるのではないかと疑ってはいる。(ヨーロッパ人は人類の最進化形というとなんだかナチスの教えみたいだが、そういう意図は本当にないとまで言えるか?)

 先日『2001年宇宙の旅』を視聴した時に、最期に生き残った船長が、木星の大気圏に入った時に、けばけばしい光の世界に入っていくのであるが、そこで自分の目を見開いて、何が起きるのかを真剣に見ているのが非常に印象に残っている。船長はなかなか美男子で、目と木星の風景を交互にスクリーンに映しだされるのであるが、驚嘆のまなざしで、何一つ見逃すまいとしているのが感動的ですらある。もうAIは破壊してしまったので、それを見て地球に報告することは出来ない(デイスカバリー号は事実上HAL9000によって自動運転されている。)。しかし、人類を進化させた未知の知的生命体(神?)と出会った時に何が起きるのか、その飽く事なき探求心、好奇心には脱帽させられる。もう自分の命も木星探索のミッションもどうでもいいのである。私も彼の立場にいれば、同じ行動をとるであろう。

 北里大學で講義していた時に、最期の講義で、「大學で学ぶ学問とは何か?」と言う講義をした。最初に発展した学問は理科系では天文学、文系では神話であるらしい。「今自分の生きている世界はどうなっているのか?」と言うことと「人類はいつ生まれたか」と言う問いは、学問の基礎である。それが解れば、もしかしたら人間はどう生きるべきであるのか?と言う問いに対する答えが与えられるかもしれない。

 話しは「猿裁判」に戻るが、聖書の最初の本である『創世記』には神が天地を作り、そして最後に「自分の似姿に似せて」人間を作ったと書いてある。(何故神が最初からいるのか?と言うのは質問として問うてはいけないらしい。信者さんなら「神は永遠の実在である」と答えるであろうが。)これは勿論神話である。『創世記』が現在の形にまとめられたのは、恐らく紀元前400年くらいで、その時の知恵ある人が世界と人間の創造に関する資料(ヤハウェ資料、エロヒーム資料、祭祀史料が大きな資料であった)を編集してつくったというのが定説(いわゆる史料仮説)である。勿論これは科学的な本でも歴史的な本でもなく、神話である。したがって「猿裁判」では支離滅裂な主張を繰り返すブライアンは完膚なまでに論破された。しかし進化論を学校で教えたスコープスも違法行為であることは事実なので、罰金刑に処せられたなど、引き分けで終わったらしい。

 アメリカ人宣教師と話しをする時は、この話題は絶対に避けた方がいい。ヨーロッパ人、特にドイツ人で日本に来るような人は、上述の資料仮説は常識として知っているので、まだ大丈夫だろう。ちなみにフロイトも『モーセと一神教』の中で資料仮説を縦横無尽に使用している。そして、私は「人間は有限な存在であるのに、何故永遠を求める気持ちがこんなに強いのか」知りたいと思う。