24-5-30(木)

鎌倉(と実家のある横浜)ではここのところ五月晴れの気持ちの良い日と、2~3日の大雨の日が交互に続き、さらに今週の後半には台風(?)が来るらしい。沖縄・奄美地方はすでに梅雨に入っており、鎌倉でも梅雨入りするのは時間の問題である。梅雨とその後の猛暑(今年の夏も凄まじい暑さになるだろうと思うといささかうんざりしてくる)の最中は多分何も出来ないであろう。こういうわけで実家の片づけが遅々として進まない。私の家は4人兄弟であるが、現在姉と妹はほとんど何もせず、服の整理(これは主に弟のお嫁さんがやった)と台所の片づけ(これは私が担当しているが、思ったより時間がかかっており、母が老人ホームに入って2年近くになるのにまだ終わらない)に思ったより時間がかかっている。半年後の11月を一応メドにしているが、もっとずれ込む可能性も出てきた。

実家と一応書いているが、私は実家に住んだことがない。父が転勤族で、海外赴任の時期も結構長かったので、横浜に“終の棲家”を構えたのは父が60近い年になってからであった。マイホームを持つのは父にとっても母にとっても悲願であったので、あちこちに父や母(そしてまだ存命であった祖母)にとっての理想が反映されている。私はその時にはすでに学習院大学を卒業したのに、定職に就かず、夜間講師(塾や予備校の教師)で食いつなぐなどだらしのない生活をしていた。父に勘当され、奥沢(自由が丘にも近く、割合住み心地は良い)にクーラーのない4畳半のアパート(当時まだそういう物件があった)で捲土重来を目指して昼間は英語とドイツ語の勉強をして、夕方からアルバイトに出ていた。

父が死んだあと、一人暮らしとなったこの実家で母は最期を迎えるつもりであった。姉がいろいろな施設(老人ホームなど)の案内をもっていってもほとんど見向きもせずに捨てられていた。「やっかい払いをするつもりか」「うちには有料老人ホームに入所する金はない」「お母さんはこの家で、庭を見ながらのんびりするのが好きなの」「老人ホームは所詮、姥捨て山だ」等言って頑固に実家に棲み続けた。私は週の半分(比較的仕事の多い週末)を鎌倉で過ごし、週末の仕事が一通り終わると実家で母の介護をする、と言う“シャトル型介護”で何とか実家での母の生活を支えた。(これは偶然両親の介護の時期にコロナ禍が始まったので私の仕事(心理カウンセリングと心理検査)が激減したなどいろいろな偶然が重なって出来たことであって、あまり皆さんは参考にされないように)。両親にとっていろいろな思い出のある実家で死ぬのは、恐らく同じような立場にいる大勢のお年寄りにとって理想の死に方なのだろう。しかし、80代後半の要介護4の老人が2年間、一人暮らしを続けるのは限界がきた。ある日(良くは覚えていないが、2年前の今頃であったと思う)「彰、老人ホームを探しておくれ」と要請してきた。すでに横浜市栄区(我が鎌倉市に近い)の特別養護老人ホームを何箇所か見学していた私はそのパンフレットを見せた。4か月後、母はあれほどいやがっていた「老人ホーム」に入所した。今、実家の片づけをしていると気がつくが、確かにこの家は、父が理想をもって設計しただけあって良く出来ている。

話しを変えるが、今年の元日に起きた能登半島の地震から半年ほどになる。私は能登半島に行ったことがなかった(若い頃一度温泉旅行に行く予定があったが、一緒に暮らしていた女性が急に具合が悪くなり、前日になってキャンセルを入れた)ので土地勘がなく、今回初めてどういう場所であるかを知った。もの凄い過疎地帯であり、住んでいるのはほとんどが老人で、漁業と輪島塗と観光くらいしか仕事がないらしいので、若い人は都会に出てしまう。そして“2次避難”とやらが全く上手く行っていないらしい。地震が起きた当初はとにかく“命を守る行動”として1次避難所に避難する。しかし、そこに長期間滞在することも出来ないで、2次避難所に行くよう指示されるらしいが、私が当の老人であれば、そんな得体のしれないstrangeな場所には行きたくないだろう。何とか長年住み慣れた元の住居に戻りたいという気持ちは痛いほど解る。老い先の短い老人ほどそう感じるはず。そこは先祖代々棲んだ家であって、数え切れないほどの想い出があるのである。しかし、懐かしい元の住処は火災で焼けてしまったり、地震で潰れてしまったり、海に流されたりして棲めない。

それならいっそのこと、“命を守る行動”などとらずに、地震があって、たとえ津波で流されてしまっても、大事な“終の棲家”にとどまって、そこで最期を迎えると言う手もあったのではないか?2次避難所(そこは殺風景なビジネス・ホテルのような場所であるかもしれない)に避難して、2年や3年長生きしたところで、人間はいずれは死ぬのである。それならば政府(やマスゴミ)の言う“命を守る行動”の要請を無視して、自分の大事な家で籠城していれば良かったと後悔している人もいるはず。

先日、「終活協議会・想いコーポレーショングループ」なる組織の人が私に会いたいというので、大船のヴィレッジ・カフェで終活の話しをした。彼女は東北地方の人で、東日本大震災の時に上述した私のような症例に出会ったことがあったそうである。今の日本は様々な自由が認められているのに“死ぬ自由”だけがない。母を老人ホームに入れたのが、(それが母の希望であったにしても)本当に良かったのか?人間は死ぬ場所すら選択することが出来ないのか?私は今でもその疑問に日々悩まされ続けている。