24-5-27(月)

 「自摸(ツモ)りました。四暗刻。役満です」。私は顔色一つ変えず、努めて冷静に発声した(つもりである)。もう10年近く前になるか。横浜の伊勢佐木町に近い雀コミュという健康麻雀(賭けない、吸わない、飲まないをモットーとし、純粋にゲームとして麻雀を楽しもうというサークル)教室でのことである。その日はちょうど甥を連れてこの麻雀教室に来た。教育的(?)な意味があったのである。麻雀の“上級者”(?、笑)と言われる人は、四暗刻(役満=麻雀を知らない人には上手く説明出来ないが、めったに出来ない高い手。ポーカーで言えばローヤル・ストレート・フラッシュのようなもの。コントラクト・ブリッジで言えばグランド・スラムか。これでも解らない人にはサッカーのハット・トリックとか野球の完全試合とか言うといくらか理解していただけるかもしれない。とにかく単に技量があってもダメであって、運を自分に取り込んでしか完成出来ない)を和了したら、どういう振る舞いをするか示したかったのである。この年に甥は就職試験に通った。甥は一時麻雀に熱中していて、それはそれでいいのであるが(本当はいけないかもしれないが)、桜井章一のようなヤクザまがいの人に憧れるなどあぶなっかしいところがあり、その日私が雀コミュに誘ったのも、「甥の職場の近くにも、健康麻雀が楽しめる場がある」ことを教えておくという狙いがあった。

雀荘のメンバー(職員)の方が「まだ始まって10分もたっていないのに、もう大堀さんのトップは決まりですね!」と私の偉業(?)を褒めてくれて、私は内心大得意であったが、努めてそれを表情にあらわさないよう必死でこらえた。もう鬼門に入ったが、古川凱章第三期名人(週刊文春主催)が、親で役満を自摸和了した時に「ツモりました。1万6千オールです」としか言わなかったのが報道されのが「流石プロ!」と称賛された。あの頃は麻雀名人戦のほかに、かきぬま王位戦、日本麻雀最高位戦、雀聖戦、東京スポーツ王座杯などいくつもの雑誌、週刊誌が麻雀のタイトル戦をこぞって開催し、皆”プロ“と言われる人たちの打ち方を夢中になって研究した。五味康佑、阿佐田哲也の蒔いた種がようやく実を結び、この流れが続けば、賭博の道具として使われていた麻雀も「知的遊戯」として囲碁や将棋並みの市民権を得たことであろう。(実際にはバブル期が始まると、再び賭けの道具としての汚い麻雀が復活してしまい、その通りにはならなかった。)

雀聖(麻雀の神様)阿佐田哲也は『Aクラス麻雀』(双葉社)の中で以下のように書いている。ちょっと長いが引用しよう。

 

国士無双(役満の一つ)をテンパイした。リーチとさけんだ。頭を真っ赤にしてツモったら見事に和了した。バンザイ、バンザイ。そりゃ痛快だろう。だが、そういう時も他の3人の冷静な目が光っていることはお忘れなく。

なあんだ、それが精一杯か。

国士を和了するのは大変なことだ。にもかかわらず、なあんだと思われたら、もうその時和了り点の半分くらいを戻しているようなものである。

一度弱いと思われたら、その人は5割のハンデを背負ったと覚悟すべし。

 

阿佐田さんの麻雀は本当に怖かった。高い手を聴牌しているのかと思ったら、危険牌を握って降りており、先ほど降りていたかと思ったら再度聴牌していたなどということがいくらでもあった。第二次麻雀ブームの火付け役は阿佐田哲也であるが、彼の麻雀は戦後の鉄火場(賭け麻雀)をくぐったいくらか汚い麻雀であった。『Aクラス麻雀』は、それより少し後にサラリーマンの間で麻雀が大流行りしていた頃に雑誌に書かれたものであって、これは今でも多くの麻雀愛好家の中でバイブルとして読まれている。阿佐田哲也は名人をとれなかったが、そのお弟子さんの古川凱章プロは第三期、第十期の名人を獲得している。古川さんは若い人たちを集めて「年間順位戦」を主宰。ここでは競技麻雀と言って賭けないで、純粋にゲームとして楽しむ闘牌が行われ、皆古川さんのような冷静沈着で礼儀正しい麻雀に憧れていた。

話は変わるが、一昨日、逗子教会でオルガンコンサートが行われた。大勢の人が集まり、1時間半ほどパイプオルガンの音色に良いしれた。献金は全て能登半島の地震に対する義援金となった。チャリテー・コンサートの後、ホールでお茶を飲んだのであるが、普段はあまり教会に来ないMさんとMさんの娘さんもいらしていた。Vさんの健康麻雀教室の生徒たちとの久々の再会であり、Vさんと一緒になって「また麻雀をしよう」と言う話しで盛り上がった。かつては教会で麻雀の話しをするなど考えられなかったが、牧師さんもニコニコしながらそれを聞いていた。麻雀の市民権を確立しようと必死になって努力していた五味康佑、阿佐田哲也に次いで、古川凱章もこの間お亡くなりになったが、ようやくそれが美し実を結んでいる。私もまたVさんの健康麻雀教室で、単に「賭けない」と言うだけではなく礼儀正しい麻雀を教えることに後半生を捧げよう。最後は格調高く聖書で締めよう。

 

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。(ヨハネ伝12章)