24-5-24(金)

 私の荒井献に対する嫌悪感はほとんど生理的なものにすらなっている。(こういうことを書いていいのかどうか解らないが)大体私は彼の顔からして嫌いだ。彼が極左の無神論者であることは前も書いたので、今回は割愛するが、“極左の無神論者”であっても私は必ずしもその人を全否定はしない。現に田川建三先生のことは尊敬しているし、今一番待ち遠しい本は田川先生のライフワークとなるであろう『事実としての新約聖書』(仮題)であり、この本が完成した暁には日本人は初めて真の意味での不偏・不党の立場から書かれた、新約聖書に関する概説書を(日本語で!)読む機会が得られるであろう。

 前回書いたように教養学科の事実上の創設者である矢内原忠雄学長はクリスチャンであった関係で、ここは多くのキリスト教系の学者を輩出している。八木誠一もその一人で、父は「荒井献も八木誠一も同期だった」と言っていたが、私が調べた範囲では八木誠一は一年遅れて卒業している。恐らく父の記憶違いで、八木誠一は父の一学年後輩であったのであるが、そもそも「ドイツ科」の定員がものすごく少なく、同じ教室で喧々諤々の議論をしていたので、同期と勘違いしたのであろう。この時期には教授である大賀小四郎先生のことも「大賀さん」など「さんづけ」で呼ぶのが普通であって、皆対等の立場で「真理の探究」に励んでいた。八木誠一は東京大学の大学院に進学して、卒業後、東京工業大学で長く教鞭をとっていた。(このように理系の単科大学でありながら、文系の研究者であっても優れた教員であれば引き抜くというのが東京工業大学の凄いところである。私が知っている範囲でちょっとあげてみても、宮城音也(精神分析学)とか橋爪大三郎(宗教社会学)などその他もろもろの文系学者がここのファカルテイを充実させている.。)

 父は結局学者にもジャーナリストにもならなかった。4年になって、大賀先生に進路について相談すると「君は銀行に向いている」と、父にとっても意外なことを助言されて某都市銀行に勤めた。父の場合、祖父の家庭の事情から大学院に進学することは難しかった。“大学院に進学して学者になる”と言う生き方へのある種のアンビバレンスはあったようで、卒業直後、同じく民間に就職した教養学科同期の4人の仲間とGesindelkirche(父はいつも「俗人協会」と称していたがこれは意図的な誤訳)を結成し、その絆は終身途絶えることはなかった。

 話しを戻して、荒井献であるが、彼は自分が無神論者であることをひたすら隠ぺいし、キリスト教関係の本を装った本の中にこっそりと極左の思想を忍びこませている。それは概ね成功しているようで、私がかつて通っていたプロテスタント教会の中でも『人が神にならないためにー荒井献説教集』なる本をテキストに使っていた。あんなのをテキストに使っていたら、どんどんキリストの教えから遠ざかるだけである。実は八木誠一にもそういう傾向が顕著に見られる。八木誠一はどこかの出版社(清水書院であったと思う)で出していた哲学者・宗教家をわかりやすく解説した双書の中の『イエス』を書いていたはずである。正直、あまりの酷さに絶句した。イエスの教えを書いた福音書の中に奇跡(嵐を鎮めるとか、ただの水を葡萄酒にするとか、長患いの病気を癒すとか)が書かれていて、これは近代の無神論的な聖書学者を悩ませている。八木誠一は「これはヌミノーゼ体験をイエスとその周りの人たちがしていた」と解釈する。ヌミノーゼ体験とはある特定の宗教の教義を離れた神秘的体験のことで、確かに霊的水準の高い人であれば仏教徒であれ、神道の信者であれ、あるいは無神論者であれ、多かれ少なかれそういう体験をしていることは事実である。問題なのは、八木誠一の狙は「ヌミノーゼ体験」なる術語を使って、「神様には敬意をもって退場していただき、イエスの超人的な奇跡は全て“超現世的な神秘体験”」で片付けようとしていることである。事実、八木はその後仏教や親鸞に研究の対象を移している。それを悪いこととは私は思わないが、「イエスが神の子である」と言う教義をこっそり骨抜きにする狙いがあるのはよろしくない。

 父を含めた4人の東大の同期の仲間の作ったGesindelkircheには荒井や八木など偉い(?、笑)学者先生たちに対する「逆説的反逆精神」とでも言うべきものがあったのではないか?大体これを「俗人協会」などと訳すのはおかしい。Gesindelとは本来が「賤民、無頼の徒」を意味する差別用語であり、Kircheは英語のchurchとほぼ同じ意味である。(本当に「協会」と言う意味にしたいのならば、何故Gesellschaft(協会のほかに「社会」「会社」「仲間」と言うような意味があり、こちらの方が自然)にしないのか?)。

 イエスが産まれたのは当時の宗教家(サドカイ派、レビ人)からでも学者(ファリザイ派)からでもなく、まさGesindelkirche(正確な訳語は「地の民(その日暮らしに追われ、ユダヤ教の律法を守りたくても守れなかった無数の見放された貧しい賤民たち)の教会」である)からであった。矢内原先生の精神を受け継いだのもまた、荒井、八木と言った象牙の塔にこもった異端的な学者どもではなく、実社会にまみれた俺たちだよ、と言うメッセージが込められていた、私にはそのように思われて仕方がない。