24-5-17(金)

 五月晴れの気持ちの良い天気が続く。今が一年で一番いい時期であろう。今のうちに実家の片づけを可能な限りやらなければならないのであるが、現在のところ弟と義妹(弟の嫁さん)以外の兄弟は全く手伝おうとしない。あれで遺産相続の時になるとずうずうしく出てくるのであるから、恐ろしい世の中になったものである。実家の片づけの課程でかなり貴重なものも喪われた。バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルテイータ全曲(諏訪根白子演奏)もそのうちの一つである。(最も音楽好きの弟が保管しているかもしれないが)。今ではもう知っている人も少ないかと思うが、この諏訪根白子という人は戦前“美貌の天才ヴァイオリニスト”の名前を欲しいままにし、ドイツに留学したこともある(この時代、旅客機など当然なかったから、若い女性がドイツに留学するということがどんなにハードルが高かったか、私もおぼろげながらしか解らないが)そうである。この人、私の父にとっては少なからぬ因縁のある人なのである。

  

 話は変わるが、終戦後、GHQの指導のもと、教育改革が行われ、アメリカ型の6-3-3-4制が導入された。この時、戦前のエリート教育を担ってきた旧制高等学校の多くは新制大学の教養学部(大学の最初の2年の教養課程)に格下げされた。東京大学もその例外ではなく、旧制一高も東京大学の教養課程と格下げになった。この時、戦前のリベラル・アーツを基とした人格教育の喪失を嘆いた矢内原忠雄東京大学総長(戦前は戦争に反対し、東京帝国大學を解雇されたが、戦後名誉回復して学長に就任した。キリスト教無教会派の超大物)は、旧制一高のファカルテイを元に4年制の「教養学科」を創設してリベラル・エデユケーションの存続を図った。矢内原忠雄はGHQのアメリカ型教育の押し付けの中に、日本のエリート教育の弱体化を図ろうという狙いがあったのを見破っていたのかもしれない。何にしても父はそこの1期生だか2期生だかになった。そこの「ドイツ科」で、後に諏訪根白子の夫となる大賀小四郎教授に出会う。

 大賀先生は京都帝国大學を卒業後ドイツに留学。帰国後結婚し、外務省に入り外交官として再度ドイツに赴任する。この時に諏訪根白子と出会ったらしい。何にしても第二次世界大戦勃発前夜、世界中が戦争に備えて合従連衡を繰り返す中で、日本とドイツは難しい関係にあったであろう。大賀先生の心労はいかばかりか図りかねる。そんな中での2人の関係には不倫の匂いがする。大賀先生と諏訪根白子はドイツで終戦を向かえ、一時一緒にアメリカに連行されたものの帰国を許され、大賀先生はこの創設したばかりの東大教養学科に教授として迎えられる。父の話しが本当だとすると、大変な碩学でドイツ語とドイツ文化への造詣の深さは図り知れないものがあった。(教養学科に入って最初に、大賀先生がニーチェの『悲劇の誕生』を流暢なドイツ語で読んで、それをが学生たちが必死で筆記するというトレーニングをしたとのこと。また、ゲーテの『若きウエルテルの悩み』を全て(ドイツ語で!)そらんじていたなど信じられないような伝説が数多くあった。)父がもともとドイツ語を学ぶきっかけとったのは、クラシック音楽に関心を持ち、その歌詞の多くがドイツ語であったということであったので、大賀先生の家に招かれ妻(愛人?)であった諏訪根白子のヴァイオリンを聴くというのは相当に贅沢な体験であったろう。(そしてどうやらその”小音楽会鑑賞”も大学の単位として認定されたらしい。)この時期の東大教養学科はまだ草創期であったこともあってか、試行錯誤の段階にあって、いろいろな体験が出来たようである。

 父の話しはともかく、時間のある人はネットで「諏訪根白子」を検索していただきたい。写真など撮ることの少なかった当時の事情を考えると、若い頃も含めて.かなり多くの写真が残っている。そして相当に魅力的な容姿であり、芥川龍之介や久米正雄ならば「小悪魔的」とか「コケテイッシュ」と言うような言葉を使ってこの魅力を表現するだろう。事実、大賀先生との恋は「略奪愛」と非難される方もいるかもしれない。大賀先生が前の奥さんと離婚し、諏訪根白子と結婚したのは私が産まれた後だから、父が東大に在籍していた頃は不倫の関係であったことになる。

 大賀小四郎先生は消えるようにお亡くなりになった(1991年没)。その潔い死にざまを父は「凄い美学だ」とたたえていた。そして諏訪根白子も子宝には恵まれず、2012年に後を追った。諏訪根白子のような、恐らく今の言葉で言えば天才的な才能のある境界型人格障害(悪口ではない)のような妻は私はとてもかかえきれない。やはりそこは大賀先生のような大物でないとダメなのだろう。東京大学教養学科は現在では大学院博士課程まで備えたフルコースの学科で、社会的な評価も高いらしい。その礎には大賀先生と諏訪根白子の「背徳の恋」もあったことは、仮に全ての人から忘れ去られることがあっても、美しい礎の一つだと私は思う。