24-5-13(月)

 父と最後に将棋を指したのは、今でも覚えているが2019(平成30)年の8月18日(日)である。その前の日に、私は実家に泊まった。次の日に心理学検定(どちらかと言うとアマチュア向けの資格で、自分がどれくらい心理学の知識があるか試す、腕試しのような性質の検定)の試験があって、試験会場が東京大学の駒場キャンパス(教養学部のキャンパスで、渋谷のすぐ近く)であったから泊まった、と言うのはある種の言い訳で、両親を様子を見に横浜にある実家に行ったというのが事実である。土曜日に鶴見の鍼灸の先生の治療を受けたあと、横浜にある実家に向かった。

 心理学検定の試験は日曜日の午後からであったので、午前中は手持ち無沙汰になって、父と一局指した。いつも通りの展開で、相矢倉戦(お互いに“矢倉”という陣立てを構えて戦う将棋の戦い方。ちなみにこの“矢倉”というのは(プロを含め)多くの棋士に愛好されている。読者諸兄ももし今手本に国語辞典があったら、ちょっと“矢倉”を引いていただきたいのであるが、面倒臭い方もおられるだろうので、私の手元にある国語辞典をひいてみるとちゃんと載っている。勿論本来の意味は「武器を収める蔵」と言う意味なのであるが、後ろの方に「将棋で金将・銀将を使って王を固く囲う戦法。矢倉囲い」とある。これは将棋を覚えて最初に学ぶ戦法であるらしく、例の藤井聡太君が(幼稚園の頃?)将棋教室に行って矢倉戦法を覚えた時のことを小学6年生の時に回想し、「これまで知らなかった重厚な陣立てに感動した」と言う趣旨の作文を書いているが、矢倉囲いを見て、「重厚だ」と言う感想を抱くこと自体、ある種の非凡な才能を感じる。(大体今の小学生は“重厚”なんて言葉知っているのか?)。藤井君はデビュー当時は、“角交換”と言う戦法を好んでいたが、実は父も角交換が大好きであった。これは相手から取った角と言うコマを敵陣に打ち込むという攻撃的で若々しい戦法であるのだが、私も父の”角交換“にさんざん負かされたので、それ以来”角交換“の将棋を避け、矢倉を組むようになった。そのため晩年の父との私の将棋は相矢倉の戦いになることが多かった。何が言いたいのかというと、父は将棋でも麻雀でも私以上に攻撃的で若々しい戦法を好んでいたのに対し、私がむしろ昔の「米長邦雄先生対中原誠先生」のようなじっくりと指す将棋を好んでいたということである。ある時期の父の麻雀は本当に若い、強い麻雀であったが、私はどちらかと言うと”読み”を中心とする柔軟な”守り麻雀“を好んでいた。こういうところにも性格が良く出るものである。)になった。

 父と私が将棋を再開したのは、父の認知症が進んできて、それを少しでも遅らせるために私が考えた治療法(?)であるが、父は私と互角に指していた。というか、父の方が戦績は良かったような記憶がある。私がわざと負けたわけでは勿論なく、本気でやってもなかなか父には勝てなかったのだから、父は若い頃はそこそこの将棋を指したに相違ない。そしてこの“最後の対局”でも私は負けた(よう)なのである。はっきり負けたとまで言えるかどうか良くは解らない。終盤になって私の玉が陣地を抜け出して、ひたすら父の玉手を避けているうちに、父は「どうやって私の玉を詰めるのか」良くわからなくなったので、一旦休憩を入れて、私が父に「こう指せば私の玉は詰むでしょう」と指南すると、「ああそういう手があった、そうやって指すと、最後は尻金で詰みだな」と納得した。ただ、これをもって「認知症が進むと、詰め将棋が出来なくなる」と言う結論は出せないような気がする。あの日はものすごく暑い一日で、午後から駒場キャンパスに行く予定であったので、それで将棋はおひらきになったのであるが、心理学検定の試験が終わって喉がかわいてコーラを買うと、泡が大量に出てきてコーラが随分無駄になった。その年で最も暑い一日であったらしく、東大は34度もあったので、父も考えるのが面倒になったのであろう。

 私の経験では、将棋や囲碁を認知症の防止に使うのは勿論良いのであるが、一番認知症の防止にいいのは麻雀のようである。これは指を使うことと何か関係があるらしい。私の友人で「忘備録と認知症の予防のためにブログを書いている」と言う人がいるが、キーボードを指でたたいて文章を書くのもまた脳の活性化にいいかもしれない。

 その年の、忘れもしない10月26日に母が倒れて、私と姉が実家に駆け付け、病院まで連れて行った。この時には普段診てくださる主治医の方がいらっしゃらなかったので、若い女医さんが代理で診てくれたが、「癌ではなく、腸に便がたまっているだけ」と言って浣腸をしてくれた。(あとでそれが誤診であることが解るのであるが)。家に帰ると父が10分おきくらいに「癌なのか?」と聞いてきたので、父の認知症はこの時にはもう相当に進んでいた。

 話しを戻すが、1局指し終わった後、父はもう一局指さないか私を誘ったが、試験の時間が迫っていたので断った。今でも「あの時、もう一局指しておけばよかったな」と父に対して済まない気持ちが私の中で喉に突き刺さった魚の骨のように残っている。