24-5-9(木)

 本屋と言うのはもう将来性が全くない仕事だろう。私が平塚に住んでいた時の古本屋はほとんど壊滅したらしいし、比較的若い人に向けて古本を売っているBOOK―OFF(店員(多くは学生アルバイトらしい)は本に関する知識はほぼなく、ただ「新しい本か」「綺麗な本か」だけで値段をつけている)もどんどん閉店している。

 この度、連休中に読もうと思って、『ドクター・キリコ・白い死神』(秋田書店,2016-2019)の全5巻をアマゾンで購入した。安楽死をテーマにした重いコミックで、ストーリーは面白いし、絵も劇画調で上手い。安楽死については全国民が真剣に議論しなければならない問題であると思うし、安楽死法案を肯定する政党が時々候補者を立てて選挙に出ている(ほとんどが落選している)。

私は看護学校で精神看護学概論を昨年まで講義していて、この講義は7コマ履修しなければならないと厚労省で決められている。私も勿論、真面目に講義をしてはいるが、最後の一コマだけは私が現在関心があり、是非若い学生さんに伝えておきたいことを自由に講義させてもらっていた。3年前は「小室眞子、小室圭の結婚と天皇制」、2年前は「中森明菜の病跡」とそれぞれアップ・デートなテーマで講義をさせていただいた。毎年別のテーマで話すので、学生さんたちも結構興味を持って聞いていたし、私も最後の講義は楽しみにしていた。そして去年は実は「安楽死」について啓蒙的な講義をする予定であったが、その前後に老人ホームにいた母が急変して、私が病院に付き添わざるを得ず(現在では割合元気で暮らしている)、また介護生活5年目に入った私にとって、かえって身近なテーマすぎて講義としてまとまらなかった。

実は「看護」と言うのは「安楽死」とは切っても切れない関係にあることは指摘しておきたい。近代看護学の母はナイチンゲールであることはいわずもがなであり、彼女はクリミア戦争(1853)に何人かの看護婦とシスターを集めて看護団を結成して従軍看護婦として働いた。その体験から、「兵士は戦場で死ぬのではなく、病院で死ぬのだ」という名言を残している。戦争で傷ついた兵士たち、それも19世紀くらいになると、戦争で使う武器も相当に近代化されていただろう。身体の半分をふっとばされて、死ぬことも生きることも出来ない(これは我々平和な社会に住んでいる人間には想像を絶する苦痛に相違ない)兵隊さんに出来ることは、恐らく医療措置ではなく、もっとメンタルなケアと言うことになってくるだろう。医学(ブラック・ジャックなど)が単に病気の人を手術して事足れりとしているのに対し、看護学と言うのは「病気」ではなく「生きた人間の苦しみ」を扱っている。だからこそ彼女らは「白衣の天使」と呼ばれて聖母マリアのような崇拝の対象とさえなったのであろう。

ドクター・キリコ(架空の人物であるが)の「安楽死」に対する信念も、彼が元軍医であった(と言う設定になっている)体験からきている。死ぬに死ねず、生き地獄のような苦しみにのたうち回る傷病兵たちに、キリコが安楽死を施すと、兵隊さんたちはこころから感謝して安らかに死んでいったというのは私は美談だと思うが、読者諸兄はいかにお考えになるであろうか?だから、今後高齢化社会が進んで、医学があまりに進歩しすぎた結果、「ただ苦しむだけのために生きる」人間が増えてきた場合、安楽死の問題が取り上げられることになることは必定である。その時には近代看護学の成立、それもクリミア戦争おけるナインゲール看護団の働きも必ず頭に入れておく必要がある、そんなことを話したかったが、全く私の力不足でまとまらなかった。

話しを戻すが、私は2か月前に、大船のBOOK-OFFで『ドクター・キリコ・白い死神』の1巻と3巻がたまたま見つかったので購入した。一応おさらいすると、ドクター・キリコと言うのは手塚治虫著『ブラック・ジャック』に登場する安楽死専門の医者である。ブラック・ジャックがあくまでも手術による治療にこだわる(手術の成功のために、かえって患者さんが不幸になる話も結構ある)のに対し、ドクター・キリコは安楽死による苦痛からの救済を約束する。実は本編(手塚治虫自身の手による)の『ブラック・ジャック』の中でドクター・キリコの登場するのはわずか9話にすぎないが、その強烈なインパクトの故、根強いファンもいる。そこで、10年ほど前、藤澤勇希脚本、sanorin作画で虫プロ(手塚治虫がお亡くなりになった後も、活動を続けているらしい)の協力を得てスピンオフが「別冊少年チャンピオン」に連載されて、私が買ったのはそれをコミックにしたものである。内容は良いのだか、テーマが暗かったためかあんまり人気がなく、私がネットで確認した範囲では絶版になっていた。

そこでアマゾンで全巻購入して、連休中にでも読もうと4月24(水)の夜、ネットで注文を出したのであるが、現在では「紙での本(コミック)」と言うのはもう主流ではなく、電子書籍(kindle版と呼ばれているらしい)なら簡単に手に入るとのこと。結局2時間くらい格闘して、何とか古本で全5巻のセットを購入した。そうでなくてもパソコンに向かって目を酷使しているので、kindle版など絶対に欲しくない。(これはいかにも昭和生まれの私の考えそうなことである)。しかし、若い人にとってはkindle版で手に入れておけばどこでも読めるし、大量の本をフールフォンにしまっておける。なるほどこれだと皆本屋に行かなくなるわけである。(ちなみに、最初にアマゾンから来たメールでは28(日)に届くという話しであったが、実際には注文してわずか3日の26(金)にはちゃんと届いた。これだと本屋はアマゾンに絶対に勝てない。)

しかしあにはからんや、これは本だけの現象であろうか?私が鎌倉に引っ越してきた時には、大船の駅ビルにはアニール(本屋)と並んでCD屋もあった。しかしこれも最近ではフールフォンにダウンロードして音楽を聴くのが普通になってきて、いつのまにかCD屋は姿を消した。

もう何もかも電子化される時代にあり、それは便利なのかもしれないが、私の性にあわない。私はやはり紙の本がいいし、自分で手に持って所有する満足感の得られるCDがいい。しかし、そういう人はもうどんどん減っていくのであろう。