24-5-1(水)

 巨匠、手塚治虫の最高傑作にして医療漫画の頂点である『ブラック・ジャック』がまたリメイクされるらしい。主役は高橋一生で、私はこの人のことを良く知らないが、名優らしい。その他も豪華キャストと言われているので、TBSはかなり力を入れていることが解る。問題はライバルであるドクター・キリコを女性という設定して、石橋静河(この人も私はよく知らない)に演じさせるそうだ。これはあまりに酷い。TBSの制作者は手塚治虫の原作に対するリスペクトが全く感じられない。(というか、そもそも読んでいない可能性すらある。)ドクター・キリコを男性にしないのは、スーパーマンやバットマンを女性にするようなものであって、「ボーダーレス社会」とやらを目指す狂信者どもには都合がいいのかもしれないが、原作者(この場合、故・手塚治虫氏)に対してあまりにも失礼である。もっともこんなに露骨に質の低いものはキリコファンは見ないだろうし、私も当然無視してみないと言う罰を与える。(もっとも私の家にはテレビがないので、視聴不可能なのであるが。)

 『ブラック・ジャック』は何度もリメイクされているが原作を超えるものはない。しかしキリコは違う。この度『ドクター・キリコ・白い死神』全5巻(秋田書店)を一括して購入したが、原作に勝るとも劣らぬ素晴らしいスピンオフである。そしてその中の第11話、『寒村の弔いの話』の中で、何とキリコは結婚をしているのである!

 このスピンオフ、ほとんど売れなかったらしいので、読者が手に入れるのは難しいだろうから私の方であらすじを書いておく。キリコのお相手は雪の深い寒村に住む近江詩織という15歳の女の子である。黒髪が長く、雪国の女性にありがちな抜けるような綺麗で潤いのある白い肌の美少女である。若年性の癌にかかっており、悪いことに脳や骨にも転移していて、はなはだしい苦痛を伴い、回復の見込みもない。そこで我らのドクター・キリコの登場と言うことになるのであるが、わずかの期間に詩織はキリコに対して転移性恋愛感情を抱いてしまう。以下キリコと詩織の対話をちょっと引用しよう。

 

詩「・・・死ぬの・・・本当に苦しくない・・?」

キ「苦しくないのが私の売りでね。苦痛が薄らぎ意識が遠のく。眠りに落ちるようにな」

詩「楽しみ。久しぶりに気持ち良く・・・眠れそう。こんなに・・・なってから眠ってても・・・・苦しいんだもん。眠る時がいっちばん・・・・幸せ・・・・だった・・のに」

キ「無理してしゃべるな!

  施術はできるだけゆっくり行うことにしよう。少しでも長く心地よい微睡みってのを味あえるようにな」

 詩「センセは・・・奥さんいないの?」

 キ「この御面相だからな」

 詩「こわいもんね・・顔・・」

 キ「良くいわれる」

 詩「・・見る目ないなみんな・・・・

  こんな・・優しいのにね・・・・」

 キ「そいつは初めていわれた」

 詩「あたし・・・だったら・・・」

(ここで詩織の身体に激痛が走る)

 詩「う、うわあああああ!」

 キ「今鎮痛剤を打つ!大丈夫だ」

 詩「死なせて・・・死なせて、もう、お願い」

 

 この『ドクター・キリコ・白い死神』は思わずもらい泣きしてしまうような話しが多いのであるが、私はここでもう涙腺崩壊。涙なくして読めない。その後、キリコは安楽死を施し、詩織は安らかな永遠の休息に入る。ところがその村には「冥婚」「死霊婚」と言う風習があり、恋愛の一つも知らなかった詩織を不憫に思った両親がキリコに「安らかな死のために」と言う名目でキリコに「娘と結婚してやってください」とお願いする。キリコ(安らかな死、と言う言葉に弱い)も「形式だけならいい」と祝言を挙げてしまう。ところが結婚式の「固めの杯」の中に睡眠薬が混入されていて、キリコは詩織と一緒に生きたまま土葬されそうになる。絶体絶命のキリコ。しかしその時死んだはずの詩織が上半身を起こし、キリコは間一髪のところを助かる。キリコは帰りの新幹線(東北新幹線?)の中で、「結局、死者の幸せなんてのは、残された人間の気持ち次第ってことだ」と総括する。家に帰ると郁馬(キリコの助手で、小学生の居候)が「お客さん連れてくるなら、あらかじめ連絡してくておいてくれ」とキリコに苦言を呈す。実は詩織は霊魂になってキリコと一緒についてきてたのである。そして詩織の霊魂はキリコ(のような無神論者)には見えないが、郁馬のような(無邪気な)子供には見えたのである。

 末期がんで、著しい苦痛を感じても死ぬことの出来ない詩織にとっては、そこから死による解放を与えてくれるキリコは神のごとき存在であっただろう。勿論転移性恋愛であることは間違いないが、そもそも世の中に転移性恋愛でない恋愛などあるのだろうか?だから男性治療者(医師、心理士、看護士、薬剤師)は女性患者と相対する時には相当に慎重であるべきである。私も3年ほど結婚していた経験があるので、結婚指輪が残っている。普段は机の中に隠してあるが、女性クライアントと相対する時には(特に相手が若い女性で境界型人格障害が疑われるケースなどでは)その指輪をお守り代わりに左手の薬指にはめている。

 話しを戻すが、この『寒村の弔いの話し』は男性医師と女性患者との間でなければ成立しない。ドクター・キリコを女性に性転換するなど、原作に対する著しい侮辱である。だから私が前々から主張しているように、治療者―患者関係を考える場合に、治療者の性別、患者の性別抜きで、ただ「ラポールをつけろ」「共感的理解が大事」「聞くではなく聴くが大事」などと書いている臨床心理学の教科書など全て何の役にも立たない。

 最後に一つだけいくらか勉強になる話しを書いておくが、ドイツ語では医者は一般的にArztと呼ばれるが、これは男性名詞である。女性の医者の場合はこれを女性名詞化し、Arztinと言う。日本には”女医さん“と言う言葉があり、精神科の医局では女性医師が結構増えている。精神科に女性医師が多いのは、心理学科に女子学生が多いのとほぼ同じ理由であるが、pc派、人権派のバカどもが「女医、と言うのは性差別につながるから使わないようにしましょう」などと主張されるのを私は恐れている。私は残りの生涯をかけて、この文化破壊運動と闘っていこうと思っている。