22-11-15(火)

 年の瀬が迫っている。今年も大勢の人が鬼門に入った。心理学(というか、精神医学、厳密には精神病理学と言うべきなのかもしれないが)の世界では中井久夫先生と福嶋章先生という両巨頭がお亡くなりになった。今では精神科のドクターで心理学を専攻される方は多くはないが、私の大学時代は「精神科医・文学部(あるいは教育学部)心理学科教授!」という方が結構多くおられた。福嶋章先生もその一人であった。

 精神病理学の中に“病跡学”という領域がある。天才的な人物はその一面、どこか狂気じみたものを持っていて(クレッチマーはこれを“デモーニッシュなもの”と呼んでいる)「正常な人で頭がいい」という人とどこか異なっている。良く取り上げられるのが芥川龍之介(統合失調症だろう)で、晩年の(と言っても彼は若くして自殺したのであるが)『歯車』『河童』『ある阿呆の一生』と言った作品を読んでいると、なんだか物狂おしくなってくる。(私はそのやや以前の「保吉もの」と呼ばれる一連の私小説風の短編小説を日本近代文学の最高峰と評価するが、ニューヨークの精神分析専門学校でなんとか資格を取って来たというレベルの精神分析医ではこの価値が解らなかったらしい)。あとゲーテ(躁鬱病)、ドストエフスキー(てんかん)などが良く話題になるが、まあこの3人に関しては病的な面が普通に読んでも解りやすいということもあって取り上げられるのであろう。

 話はちょっと変わるが、30年以上、この道で生活してきて、ずっと疑問に思っているのは「精神病というのはマイナスの価値しかないのか?治療の対象でしかないのか?」ということである。前述の天才たちがいなければ、人類の作り上げた文化・芸術と言うものは極端に貧困なものにならざるを得なかったであろう。では何故“狂気”は“天才”を作り上げるのか?それは閉塞した現状を打開するのは、「普通に才能がある」という程度ではダメであって、もっと何か“魔”とでも“狂気”というべきものが必要だからではないかと今は思っている。今の若者が理想の人生として描くのは、そこそこの大学に入って、そこそこの企業に入って(あるいは公務員になって)、小市民的な家庭を築いて、2人くらい子供をもうけて、定年まで働いて、晩年は年に2回くらい温泉旅行に行けるような身分になるというあたりである。(今こうして書いていて気がついたのは、こういう人生を送ることすらもはや難しくなっている現状があるということである。私が大学生であった頃は、早慶はともかくMARCHクラスの大学に入っていれば、こういう生活は出来たが、今では”安定した小市民的な生活“すらつかむのが難しい。)こうした時代閉塞の現状を打ち破れるのは「IQの高い凡人」ではなく「多少常軌を逸していても、何か天才的な才能のある狂人」である。今の日本はヒットラーの登場したワイマール共和国末期のドイツと時代精神が酷似している。

 話しを戻すが、私が上智大学に進学した動機の一つに、当時病跡学の大家であった福嶋章先生がスタッフとして在籍されていたことがあった。私も「日本病跡学会」に所属していたこともあったし、この領域では何本か論文を書いている。前書きが長くなりすぎてしまったが、中森明菜もまた、この「狂った天才」の中に入るのだろう。今年の看護学校の講義では、どうしても中森明菜に関して論じておきたい衝動をもはや抑えることが出来そうにもない。

 中森明菜の場合、その当時の芸能界を支配していた「前史」をどうしても書いておかなければならないので、今日はその「序論」の部分だけ書いて終わりにする。1970年代以前の芸能人は事務所の“奴隷”であった。アイドルと呼ばれ、その肢体からあふれ出る若さを売り物にした「人形」であって、その人格を認められることはなかった。(現在の芸能界もAKB以後そういう傾向があるが)。ところが70年代後半に入ると『人形の家』現象とでもいうべきものがおきて、アイドルたちが「自分達も人格を持った人間だ」と自己主張を始めた。まずキャンデイーズが「普通の女の子に戻りたい」と芸能界を去った。南沙織さんが「学業に専念する」という理由で引退(実際には彼女は勉強などしておらず、篠山紀信氏との結婚に向けてちゃくちゃくとコマを進めていた)、そして極めつけは山口百恵がコンサートの途中で「私の好きなのは、三浦友和さんです!」と公開告白したことである。当時、山口百恵と三浦友和は交際していたが、「あと一歩」(プロポーズ)はなかなかしてもらえないというじれったい状態にあったようである。19歳の女の子がここまで知恵がまわるとは私には信じられないのであるが、「女の幸せをつかむにはこれしかない。ここで交際を暴露すれば、三浦友和の誠実な性格からして自分と結婚するしかなくなるであろう。「いや、百恵とは単なる遊びだ」など言えば、当時誠実派で売っていた三浦友和の人気は凋落する。それを防ぐには自分と結婚するしかなくなる。」ここまで計算していたと思う。将棋で言えば「詰めろ」をかけたのである。2年後に21歳になった山口百恵は三浦友和を見事にゲット、しかし残された芸能界は大変な騒ぎになっていた。山口百恵という大スターを喪い、新しい女性歌手を探さなければならない。それもこれまでのような事務所の言うことに従順に従う女の子ではダメであって、「自分」というものを持った「個性と才能のある一人の人物」が求められていた。80年代の芸能界は多くの事務所がとにかく女の子を売りに出していた。(売春をさせるなど悪い意味ではなく)。その中で頭角を現したのが松田聖子と中森明菜であった。

 

(以下次号。もっとも今後の更新で中森明菜の栄光と凋落について書くかどうか解らない。書きたいことが毎日山のようにあふれ出るなどある種のそう状態に陥っているので、(現在深夜、午前4時)、書くにしてももう少し知性が情動を抑えることが出来る状態をまった方がいいような気がする。ただ、看護学校の講義で中森明菜を取り上げることだけは約束する。そして、これだけは書いておくが、私は自分が中森明菜ほどの天才ではなかったことを神に感謝してさえいる、彼女はそれほどの大天才である。)