22-1-16(日)

 先週の今日、ちょうど一週間前のことになるが、父が最後に勤めた会社で父の秘書を勤めた方が父の弔問に来てくださった。彼女のことは時々父から話しが出て、時々父との食事につきあってくださるなど随分親しかったらしい。年齢的にも私と釣り合うので、父は私の嫁さん候補として彼女を考えていた時期もあったらしい(が結局彼女はN村証券に勤務するエリートの方と結婚した。彼女が父の秘書をしていた頃、私は上智大学に提出する修士論文を書いていて、結局私と彼女とは縁がなかった。)

 その日、私の実家は前の夕方から大変な騒ぎで、姉が和菓子とカステラとおせんべいと高級な緑茶を用意して、どのように彼女をもてなすか私を厳しく指導した。当日は私も日曜にもかかわらず礼拝をさぼり、母は朝、姉についで彼女のもてなし方について細かく私に指導した。午前中いっぱい母は落ち着かず、化粧を入念にチェックしていた。当日の2時間にわたるお茶の時間に何が話しあわれたのかはここでは伏せておく。彼女も現役の社会人であるし、また会社の内実について父と彼女から聞いたことをここですっぱ抜くといくらか迷惑のかかる人もいるような感じがする。ただ、彼女が父の遺影の前で号泣したことだけは書いておきたい。父の遺影の前で号泣した人を私は他に知らないのだ。随分と父を理想化してくれていた(美しき誤解)のは事実のようである。

 さて、母の最期の希望であった年末年始の温泉旅行(の護衛)も終わり、父の秘書であった方の接待も終わったので、私はとりあえず母の介護に関していそいでやらなければならないことは当分なくなった。いわば“荷下ろし状態”に陥ったのである。そのためかどうかは不明であるが、その日(先週の日曜日)以来、寝つきが悪く、さらに熟眠感がなくなった。鎌倉に帰っては来たけれど、実は生産的なことは何もやっていない、というか、やる気になれないのである。藤村の『破戒』も読んでいないし、読んでも活字が頭に入ってこない。2年間の介護生活で私は2度鬱状態に陥ったが、スルピリドで適当に凌いだ。とうとうあれがまたやってきたらしい。私が生涯最初に“荷下ろし鬱病”にかかったのは修士論文を提出した直後であった。あの時にどういう処方をしたのかレシピは残っている。何をすればいいのかは分かっているのである。昨日から微量のクスリを朝晩入れはじめた。(精神科の主治医とはどうしても連絡がつかなかったので、月曜日に連絡して事後承諾ということになる)。昨日は鍼灸師の先生のところに施術を受けに行った。この先生専門学校の教員をやっているだけあって、やたらと病気(というか人間の身体の健康)について詳しいので、私は医者以上に信頼している。彼女は「介護者と被介護者が共倒れになったらどうしようもないので、良く言えば休み休みやること、悪く言えば手抜きをすること」を助言し、さらに「ここのところやっていないらしい午後の散歩を再開する」ようおっしゃっていた。そういえばここのところ天候が悪くて散歩をしていない、というより散歩をすることに喜びが感じられないのである。

 鎌倉にトンボ帰りしてくると、税理士の友人から電話があった。最近彼のいる施設で、面会が解禁になった(と言ってもあらかじめ予約を入れて、施設の許可を得て、30分面会するのがようやく許可になったそうである)ので、来てほしいと言って日程を調整していたが、オミクロン株だか何だかの再度感染拡大のため、あっという間に面会謝絶にもどったそう。確かにここのところ毎日感染者数が増加している。

 夜は湘南地区の開業精神科医・公認心理師会の新年会の開催について、ある精神分析医に電話した。この会は普段は藤沢で開催しているのであるが、ちょっと前までは東京や横浜(感染者が桁外れに多い)に近い場所を避けて、平塚か小田原で開催出来ないか、検討していたが、いつ緊急事態宣言が出されてもおかしくない今日この頃、開催するのはむずかしいだろう。

 クスリを飲んで、珍しく気持ちよく入眠できたが、夜中にスマホが何度もなって、その度に起こされるので、結局良く眠れなかった。トンガかどこかで火山噴火があって、津波が来る危険性があるので、スマホが警告を鳴らすのである。大事なことではあるが、私にとって今日の仕事も大事なので、申し訳ないと思いつつスマホの電源を切った。