大変長らくお待たせ致しました。
今回は前回の続編です。1923年から1926年にかけて、日活京都撮影所旧劇部に所属していた旧劇俳優の変遷を辿りたいと思います。
投稿してから一年以上になってしまいましたが、1923年よりも以前に日活の前身である横田商会、並びに発足後の日活京都撮影所に所属していた旧劇俳優の変遷につきましては、以下のリンクを参照願います。
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先ず、1921年4月13日に日活第二部の市川姉藏が心臓麻痺で急逝した前後の日活京都の概要を纏めたいと思います。
旧第一部では、1922年3月2日に尾上松之助と共に日活京都の看板俳優だった中村扇太郎が他界、同月末には子供芝居時代からの幼馴染みだった嵐橘樂も他界、部内での不幸が相次ぎました。
旧第二部では、姉藏急逝の影響により、かつて松之助一派に所属していた嵐冠三郎、片岡市太郎、中村駒梅らが牧野省三と共に日活京都を正式に脱退、一方で残留する者も現れました。
また、中村扇太郎・嵐橘樂両氏の急逝に伴い、新たに中村吉十郎、阪東左門、更に扇太郎の遺児である中村ぢがみらを迎え入れました。固より歌舞伎界の変わり者と云われた阪東左門は、僅か数ヶ月で嵐璃徳一派の在籍する帝国キネマ小阪撮影所へ移籍してしまいますが、なんだかんだで運の良い松之助は、中村吉十郎や片岡松燕、そして旧第二部から返り咲いた實川延一郎らと共に引き続き日活京都を支えました。その他、来たる1923年9月1日に発生した関東大震災直後までの動向を纏めると以下の通りになります。
旧第一部
- 中村扇太郎…1922年3月2日没
- 嵐橘樂…1922年3月末没
- 嵐璃珀、市川壽美之丞…1922〜25年没
- 尾上松三郎(池田冨保)、中村仙昇(築山光吉)…映画監督に転向
- 阪東左門…帝キネ小阪へ
- 尾上梅曉(別所益枝)…マキノ等持院へ
旧第二部
- 市川姉藏…1921年4月13日没
- 市川家久藏…残留のち退社、新派に戻り渡米
- 尾上多摩之丞、尾上卯多五郎、實川延一郎、實川延車、坂東巴左衞門…残留
- 嵐冠三郎、市川鬼久十郎(市川花紅)、市川鬼久丸(市川省紅)、市川小蝦、片岡市太郎、片岡(市川)紅三郎、中村駒梅…マキノ等持院へ
さて、牧野省三の経営する京都千本座専属の旅役者から「日本初の映画スタア」と呼ばれるまで跳ね上がり、震災後も相変わらず大活躍した尾上松之助でありましたが、次第に人気に翳りが見えるようになります。
その一番の原因として、既に日活を退社した牧野省三や、松竹の野村芳亭、伊藤大輔らが主張していた、女優や写実的な殺陣を取り入れた「革新的な時代劇映画」が本格的に製作されるようになったからです。一方、松之助映画の様な旧来の女形や様式的な殺陣を取り入れた「伝統的な旧劇映画」が、もはや時代遅れとなりつゝありました。
また、撮影所内でも大きな変化が見られました。1923年9月1日に発生した関東大震災です。この影響により、かつて現在の東京都墨田区にあった「日活新派」こと日活向島撮影所は強制的に閉鎖され、山本嘉一、水島亮太郎、小泉嘉輔、木藤茂、森清ら日活向島専属の新派・新劇俳優は日活京都へ強制的に引揚となります。以降、新派・新劇映画改め現代劇映画も日活京都で製作されるようになり、同所は事実上の「パンク状態」に。
更に、尾上松之助一派はこれまで歌舞伎出身の旧劇俳優(新派出身の市川家久藏を除く)で構成されていましたが、次第に現代劇俳優の加入により、撮影所内も映画の作風も何もかもガラリと変化していくのであります。これも、松之助の人気に翳りが出た理由の一つと言えるでしょう。
それでは、日活京都に新派・新劇俳優が加入した1923年から1926年までの面子です。
※なお、関東大震災後も在籍が確認出来る以下の旧劇俳優に就きましては、恐れ入りますが前回のブログを参照して下さい。リンクは冒頭に添付しています。
- 嵐榮二郎、嵐珏松郎、嵐龜三郎、嵐秀之助
- 大谷鬼若、大谷友三郎
- 尾上卯多五郎、尾上華丈(市川百々太郎)、尾上多摩之丞、尾上蝶之助、尾上鶴五郎、尾上松昇、尾上松之助、尾上松葉、尾上綠郎
- 片岡松燕、片岡市童、片岡(市川)市女藏、片岡長正
- 實川延一郎、實川延車
- 中村歌枝、初代中村吉十郎、中村仙之助、中村ぢがみ
- 坂東巴左衞門
嵐璃左衛門(1881〜不詳)
本名柴崎冨太郎。兵庫県神戸市出身。先代嵐璃珏門弟。1924年初代中村吉十郎の招聘により日活京都入社。1926年尾上松之助逝去後も残留、1932年退社して歌舞伎に戻るまで、同所の脇役俳優として活躍した。嵐璃左ヱ門とも名乗った。嵐瑠左衛門は誤植。
尾上玉若(1901〜不詳)
本名眞野元次郎(諸説あり)。京都府京都市出身。中村仙松門弟。1923年日活京都入社。同所としては珍しく、女形兼二枚目として活躍。1926年尾上松之助逝去後も残留、1932年退社まで在籍した。
尾上桃華(1898〜1953)
本名石田常吉。大阪府大阪市出身。市川團若門弟。1925年日活京都入社。尾上松之助最後の門弟と云われる。1926年松之助逝去後も残留、尾上華丈と共に同所には欠かせない脇役俳優として活躍し、1932年退社まで在籍した。
澤村村右衞門(1875〜没)
本名高木龜吉。福岡県福岡市出身。先代澤村訥子門弟。1923年日活京都入社。時既に40代半ばであったが、同所の主演・準主演俳優として活躍し、1926年尾上松之助逝去まで在籍した。なお、同じ日活の片岡長正の師匠だった先代澤村村右衞門とは全くの別人である。
- 松之助映画の概念を変えた主な俳優*
小栗武雄(1897〜不詳)
本名島根武二郎(諸説あり)。現在の東京都港区出身。初代喜多村緑郎門弟。1920年日活向島入社。1923年藤野秀夫ら連袂退社事件後も残留、名女形として活躍する。1923年日活京都引揚と同時に旧劇部に転じた。
尾上多見太郎(1892〜1947)
本名川本辰之助(諸説あり)。大阪府大阪市出身。師匠無し。尾上姓を名乗っているが、成美団出身の元新派俳優である。1925年日活京都旧劇部入社。
葛木香一(1890〜1964)
本名根石次郎。北海道函館市出身。師匠無し。1917年小林商会で映画初出演。のち天活巣鴨、国活角筈、日活巣鴨を経て、1923年日活向島移籍。同所の二枚目スタアとして売り出し、1923年日活京都引揚後も継続入社。同年帝キネ芦屋、東邦映画に一時移籍したが、1925年復帰。同時に旧劇部に転じた。
- 松之助映画の概念を変えた主な女優*
岩井咲子(1898〜没)
本名山田咲子。現在の静岡県富士市出身。実父は澤村金十郎、実弟は市川荒右衛門。岩井染八門弟。1923年日活京都旧劇部入社。松之助映画に出演した「女優第1号」として活躍する(実際は第1号ではない)。
浦邊粂子(1902〜1989)
本名木村くめ。現在の静岡県下田市出身。1922年波多野安正の招聘により小松商会で映画初出演。1923年日活京都旧劇部に移籍した。
一色勝代(1905〜1950)
本名大久保綱子。京都府京都市出身。1924年松竹下加茂入社、一色瑠璃子(一色るり子とも)を名乗って澤村四郎五郎一派と共演。同年一色勝代と芸名改称して日活京都旧劇部に移籍した。
伊藤壽榮子(1866〜没)
本名伊藤すゑ。現在の三重県亀山市出身。初代實川延若門弟。1916年日活京都旧劇部入社。伊藤すゑ子、伊藤壽榮、伊藤スヱとも名乗った。
大谷良子(1905〜不詳)
本名小寺澤まさ。出身地調査中(東京都か)。夫君は志茂山剛。また、島耕二の最初の夫人、片山明彦の実母としても知られる。1925年日活京都旧劇部入社。
小林叶江(1907〜戦後)
本名伊東叶江(旧姓小林)。石川県金沢市出身。叔父は小林彌六。幼少期から松之助映画に出演していたという逸話がある。1924年酒井米子の招聘により日活京都旧劇部に正式入社した。
小松みどり(1891〜1982)
本名谷喜久。実姉は中川芳江。現在の東京都文京区出身。1919年国活巣鴨で映画初出演。1920年国活角筈するが、間も無く国活巣鴨復帰。1923年松竹蒲田移籍。同時期に新派から旧劇に転向し、澤村四郎五郎一派と共演。1925年日活京都旧劇部に移籍した。
澤村春子(1901〜1989)
本名同じ。北海道礼文郡礼文町出身。松竹キネマ俳優学校卒業後、1920年松竹蒲田入社。同年松竹キネマ研究所に移籍するが、1921年解散により松竹蒲田復帰。1923年日活向島入社、天性の悲劇女優と称され大活躍する。1923年日活京都引揚と同時に旧劇部に転じた。
本名同じ。現在の東京都港区出身。元帝劇女優。1924年日活京都現代劇部入社、同年旧劇部に転じた。
松本靜枝(1886〜不詳)
本名羽田野静枝(諸説あり)。現在の東京都千代田区出身。夫君は波多野安正。井上正夫門弟。1920年国活角筈で映画初出演。1921年小松商会に移籍するが、1923年解散に伴い日活京都旧劇部に移籍した。松本靜子、松本靜江とも名乗った。
光村貴美子(1907〜戦後)
本名川上高江。現在の愛媛県松山市出身。1924年日活京都旧劇部入社。光村きみ子とも名乗った。
*日活京都現代劇部専属で松之助映画に出演経験のある男女優(山本嘉一、市川春衞、梅村蓉子、酒井米子、鈴木歌子、妹尾松子、千草香子、露野文子、堀富貴子など)を除く。
※以下、目下調査中(随時更新予定)。
- 嵐小秀、嵐岡若、嵐守尾、市川左鴈次、市川正之助、市川瀧榮、市川瀧次郎、尾上小若、尾上竹雀、尾上蝶幸、尾上蝶次郎、實川若郎、中村吉五郎、中村吉昇、中村時鴈次、中村東十郎
- 川上二郎、小林重夫、早水清一、山崎市太郎
- 源八千代、高砂靜子、大村鈴子、岸實子、河村節子、市川松代、高橋龍子、梅村梅子、原蘭子