大変長らくお待たせ致しました。
記念すべき第1回目は、1910年から1923年にかけて、日活の前身である横田商会、並びに発足後の日活京都撮影所に所属していた旧劇俳優の変遷を辿りたいと思います。
今から111年前の1910年、実業家の横田永之助(1872〜1943)によって、現在の京都二条城付近に関西初の映画撮影所である横田商会二条城撮影所が開設されました。
二条城撮影所跡
同じく1910年、当時京都千本座と云う劇場の経営者だった牧野省三(1878〜1929)が監督を務めた映画『忠臣蔵』が製作されました。本作は後に「現存する最古の忠臣蔵映画」と呼ばれています。
主演は皆さん御存知、日本映画初の大スタアとして一世を風靡した尾上松之助であります。本作では大石内蔵助、浅野内匠頭、清水一角の全三役を演じました。一方、大敵役の吉良上野介は片岡市之正が演じ、松之助と同じく京都千本座の人気役者でした。その後、1912年になると、吉澤商店、横田商会、M・パテー商会、福宝堂の四社が合併して日活が発足。同所も日活京都撮影所と改称され、以降、法華堂、大将軍、太秦と京都市内を転々としながらも、多くの傑作を生み出したのであります。
次に、1900年代から1920年代初頭までの日本映画界は如何と申しますと、日本映画の在り方や映画製作会社の在り方をめぐって、いわゆる「混沌期」を迎えて居りました。殊に、日活を早期脱退した者達による映画会社の乱立や解散が相次ぎ、また撮影技術や演出法といった映画芸術の暗中模索が続いていたのであります。「日本映画は欧米よりも低級で粗雑」と云う悪い印象から脱却する為、映画製作者側が興した試行錯誤でありましょう。
この様な発展途上の渦中にあった為、同時期に活動していた一座および映画俳優に就いて詳しく書かれている記録は、正直なところ殆ど見当たりません。但し、映画俳優の名前をひたすら羅列している丈けの資料は少なからずありましたので、その詳細を我々が解き明かしていきたいと思います。
先ず、1910年から1918年までの間に入社した旧劇俳優の面子であります。
嵐珏松郎(1878〜不詳)
本名金子松三郎(諸説あり)。現在の三重県松阪市出身。実父は嵐珏十郎。先代嵐璃珏門弟。1912年日活京都入社。1926年尾上松之助逝去後は、河部五郎や大河内傳次郎ら新人スタアの主演作品に出演。1932年退社まで同所の脇役俳優として長く活躍した。
嵐龜三郎(1878〜不詳)
本名大畑音次郎。京都府京都市出身。阪東芝鬼藏門弟。1917年日活京都入社。1926年尾上松之助逝去後は、河部五郎や大河内傳次郎ら新人スタアの主演作品に出演。 1932年退社まで同所の脇役俳優として長く活躍した。
嵐冠三郎(1878〜不詳)
本名北岡力松。京都府京都市出身。実娘は北岡芳江。先代嵐冠十郎門弟。1910年横田商会入社。同所の中堅俳優として活躍したが、1921年市川姉藏逝去に伴い牧野教育映画へ移籍した。
嵐秀之助(1878〜1941)
本名西村治三郎。現在の滋賀県彦根市出身。嵐重三郎門弟。1914年日活京都入社。同所の脇役俳優として活躍したが、1926年尾上松之助逝去に伴い俳優を廃業、本名西村治三郎と芸名改称、時代劇技芸部幹事に就任した。日活の金貸屋として知られる。渾名は「茨木屋」。
嵐 橘樂(1874〜1922)
本名永田長治郎。大阪府大阪市出身。実父は嵐璃喜藏、実兄は嵐璃三郎。先代嵐橘三郎門弟。1909年横田商会入社。逝去直前まで同所の中堅俳優として活躍。尾上松之助とは幼馴染みで、山田兎三郎(澤村金十郎)と共に数少ない親友として知られた。嵐喜樂とも名乗った。
嵐 璃珀(1874〜没)
本名高橋鶴松。広島県広島市出身。先代嵐璃珏門弟。1912年日活京都入社。1919年牧野省三と共にミカド商会移籍、1920年日活京都第一部復社。1922年関東大震災直前まで同所の中堅俳優として活躍した。
市川家久藏(1894〜戦後)
本名出來一郎。大阪府大阪市出身。義兄は森三之助。先代市川右團次門弟。1911年吉澤商店で映画初出演、森と共演。1915年日活京都入社、1920年日活第二部異動、1921年市川姉藏逝去後も残留。1922年関東大震災直前まで同所の女形俳優として活躍した。
市川壽美之丞(1860〜没)
本名奥村捨吉。現在の京都府宮津市出身。先代中村芝翫門弟。1911年横田商会入社、満51歳で映画初出演。1922年関東大震災直前まで、同所の貴重な老優として活躍した。
大谷鬼若(1878〜1941)
本名今西友次郎。京都府京都市出身。実弟は中村仙太郎。大谷友松門弟。1910年横田商会入社。同所に欠かせない悪役俳優として活躍したが、1926年尾上松之助逝去に伴いマキノへ移籍した。
大谷友三郎(1877〜不詳)
尾上蝶之助(1891〜不詳)
本名苗村正治郎。京都府京都市出身。尾上松之助門弟。1917年日活京都入社。1926年尾上松之助逝去まで同所の脇役俳優として活躍した。
尾上鶴五郎(1884〜不詳)
本名服部茂七(諸説あり)。京都府京都市出身。尾上松之助門弟。1917年日活京都入社。1926年尾上松之助逝去後も残留、1927年尾上鶴三を名乗って河合映画に移籍するが、1929年日活京都復帰。以後、1932年退社まで同所の脇役俳優として活躍した。
尾上松昇(1894〜不詳)
本名津田留治郎。現在の滋賀県野洲市出身。尾上松之助の一番弟子と云われる。1911年横田商会入社。1926年尾上松之助逝去まで同所の脇役俳優として活躍した。
尾上祿郎(1894〜不詳)
本名河原忠次郎。京都府京都市出身。尾上松之助門弟。1917年日活京都入社。1926年尾上松之助逝去後も残留、1932年一時退社するが、1934年日活京都復社、同年から殺陣師を兼任。同所の脇役俳優として長く活躍したが、1937年東宝へ移籍した。
片岡市童(1885〜没)
本名渡邊政吉。京都府京都市出身。片岡市太郎門弟。1917年日活京都入社。1919年片岡市太郎のミカド商会移籍後、並びに1926年尾上松之助逝去後も残留。1928年退社まで同所の中堅俳優として活躍した。
片岡市太郎(1877〜没)
本名塚本末吉。京都府京都市出身。牧野省三の娘婿。先代片岡市藏門弟。1907年横田商会入社、尾上松之助よりも2年早く映画初出演。1919年ミカド商会移籍、1920年日活京都第二部異動。同所に欠かせない立役者として活躍したが、1921年市川姉藏逝去に伴い牧野教育映画へ移籍した。
片岡長正(1887〜没)
本名桑島莊一郎(諸説あり)。現在の東京都新宿区出身。先代片岡長太夫門弟。1910年横田商会入社。同所に欠かせない女形スタアとして活躍したが、1924年小栗武雄の加入に伴い退社した。尾上松之助の相手役として名高い。片岡長生は誤植。
片岡定丸(1891〜1927)
本名沼田定次郎。京都府京都市出身。片岡市之正門弟。1909年横田商会入社。同所の立役者として活躍していたが、1917年片岡市之正逝去前後に俳優を廃業。同年沼田紅緑と芸名改称、映画監督に転向したが、1921年牧野教育映画へ移籍した。
中村歌枝(1873〜没)
本名辻井芳太郎。京都府京都市出身。中村治三郎門弟。1912年日活京都入社。同所の老女形として活躍していたが、1925年女形廃止に伴い退社した。中村歌江とも名乗った。
中村仙之助(1884〜1956)
本名山田重三郎(諸説あり)。現在の東京都中央区出身。中村仙昇門弟。1909年横田商会入社。大谷鬼若と並ぶ同所の悪役俳優として活躍。1926年尾上松之助逝去後は、河部五郎や大河内傳次郎ら新人スタアの主演作品に出演。1927年山田純三郎と芸名改称、1929年勤続功労者として時代劇技芸部理事に就任したが、1930年芸能界を引退した。日活の奇人として知られる。渾名は「鉛の天神さん」。
※以下、目下調査中。情報求む。
嵐榮二郎(調査中〜没)
本名・生年・出身地調査中。1909年以前横田商会入社、大正9年日活京都第二部移動。1923年震災後も引き続き在籍していた模様。嵐榮次郎とも名乗った。
嵐秀二郎(不詳〜没)
本名・生年・出身地不詳。詳細不明。
市川森十郎(不詳〜没)
本名・生年・出身地不詳。1909年以前横田商会入社。
片岡市昇(不詳〜没)
本名・生年・出身地不詳。詳細不明。
片岡市之正(1863〜1917)
本名・出身地調査中。実父は中村延笑。延笑の愛人である牧野彌奈との間に生まれたのが、後に片岡市太郎の夫人となる牧野京子。よって、市之正は牧野省三、片岡市太郎の親戚と判明。1910年以前横田商会入社。尾上松之助と共に同所の中堅俳優として活躍。片岡市之丞とも名乗った。
片岡蝶十郎(不詳〜没)
本名・生年・出身地不詳。1913年以前日活入社。
片岡柳三(不詳〜没)
本名・生年・出身地不詳。詳細不明。
中村駒梅(1876〜没)
本名・出身地調査中。1914年以前日活京都入社、1919年日活京都第二部移動。1921年市川姉藏逝去に伴い、片岡市太郎、嵐冠三郎らと牧野教育映画に移籍した。
中村雀芝(調査中〜没)
本名・生年は目下調査中。出身地調査中(石川県金沢市または石川県七尾市か)。実父は幕末〜明治期に北陸地方で活動した中村芝賀藏(中村芝加藏とも)。大正6年以前日活京都入社。
中村仙昇(1885〜1962)
本名築山光吉。大阪府大阪市出身。実父も中村仙昇を名乗る歌舞伎役者であったが、明治42年以前には既に死去。大正5年以前日活京都入社。大正9年日活京都第二部移動。大正12年関東大震災後に俳優を廃業、本名築山光吉を名乗って映画監督に転向した。中村仙升とも名乗った。
中村仙太郎(不詳)
本名・生年・出身地不詳。大正7年以前日活入社。大谷鬼若の実弟とは別人と思われる。
中村芝栗(調査中〜没)
本名・生年・出身地調査中。大正7年以前日活京都入社。「元祖殺陣師」と呼ばれ、松之助映画の殺陣師をも兼任していた。中村小芝と同一人物の可能性が高い。中村柴栗とも名乗った。
中村小芝(調査中)
本名柴田留次郎(諸説あり)。生年・出身地調査中。松之助映画の殺陣師をも兼任していたが、1926年松之助逝去前後に病気のため引退した。中村芝栗と同一人物の可能性が高い。
澤村竹之助(不詳)
本名・生年・出身地不詳。大正9年以前日活京都入社。同年日活第二部移動。
片岡市女藏(不詳)
本名・生年・出身地不詳。大正4年以前日活京都入社。1926年尾上松之助逝去後も残留、1930年頃まで在籍していた模様。なお、同時期に小林商会、松竹蒲田・下加茂に所属していた先代片岡市女藏(後の田中正春、二代目西川扇十郎)、並びに日活京都、東横映画、東映京都、松竹京都に所属していた片岡市女藏(中野市女藏とも)とは別人である。市川市女藏とも名乗った。
尾上梅曉(1863〜没)
本名別所ます。出身地調査中(京都府京都市か)。1909年横田商会入社。女性で初めて映画に出演した「日本最初の映画女優」とされる。1912年退社して歌舞伎に戻るが、間も無く日活京都復社。1923年マキノ等持院移籍まで同所の貴重な老優として活躍した。
1910年に横田商会二条城撮影所が完成して以降、日活旧派では牧野省三と尾上松之助・片岡市之正両一派による映画製作が進められました。ところが、片岡市之正は1917年12月12日に心臓麻痺で急逝。ピンチヒッターとして中村扇太郎が加わりましたが、上記の通り扇太郎は生まれつき病弱であり、入退社を繰り返していた為、松之助一強の時代が続いたというわけであります。
続きまして、1919年から1923年までの間に新たに入社した旧劇俳優の面子であります。
市川姉藏(1878〜1921)
本名矢島梅吉。現在の静岡県磐田市出身。実父は市川松朝。定説では三代目市川市藏門弟とされているが、四代目市川市藏(阪東豐作)から名前を無断で借りていたそうで、その所為か代数には含まれていない。1920年日活京都第二部入社。凡ゆる役柄をこなし、尾上松之助を圧倒させる立ち回りで大きな評判を呼んだ。
日活京都第二部
片岡紅三郎(調査中)
1919年、牧野は遂に片岡市太郎や嵐璃珀らと共にミカド商会を立ち上げます。ところが、翌1920年には日活に買収され、独立計画は失敗に終わりました。日活に戻された牧野は、新たに市川姉藏一派を同所に迎え入れて松之助に対抗、日活京都第二部として再出発を図ります。松之助と比較して、市川姉藏は顔立ちや容貌に特徴は無かったと云われていますが、演技派俳優として松之助を焦燥に駆られる程の見事な立ち回りで評判を呼びました。
一方、松之助率いる日活京都第一部は、辻吉郎(1892〜1946)や当時助監督だった小林彌六(1878〜1943)が牧野に代わって松之助映画を製作するようになりました。また、後に映画監督となる尾上松三郎こと池田富保らの加入により更なる飛躍を目指しますが、時既に遅し。部内や日活本社側は、このままでは第二部に呑み込まれるのではないかと危惧の念を抱くようになり、また一部の映画評論家からも、松之助は間も無くスクリーンから消えるだろうとまで云われるようになります。
『実録忠臣蔵』撮影記念(1921年)
分裂と第一部消滅に危機感を覚えた代表取締役社長の横田永之助は、1921年に日活京都第一部・第二部合同で製作された映画『実録忠臣蔵』が公開されました。演出は牧野が務めましたが、演技形式は旧来の様式的な殺陣や女形を取り入れると云う、かなり異色な作品となったのであります。仲違いしている部派を無理やり結託させるなど、今では考えられない話(?)ですが、結果的に同作は封切期間が延長になる程の連日超満員を記録しました。
ところが、姉藏は公開から僅か1ヶ月後の1921年4月13日にまたしても心臓麻痺で急逝。二部制は廃止となり、牧野はこれを機に映画監督の沼田紅綠、金森萬象、俳優の片岡市太郎、嵐冠三郎、市川鬼久十郎、市川鬼久丸、市川小蝦、中村駒梅ほか35名と連袂退社。現在の京都市北区にある等持院境内に牧野教育映画等持院撮影所、後のマキノ等持院撮影所を新設。念願の独立に成功しました。
一方、旧第一部でも波瀾が起きます。1922年3月2日には病弱の中村扇太郎が、3月末には嵐橘樂が相次いで急逝。窮地に追い込まれた松之助は、新たに初代 中村吉十郎や阪東左門らを迎え入れますが、結局のところ日活旧派は再び松之助一強の時代に逆戻りしてしまいました…。
牧野退社後の松之助一派(1922年)
さて、時代は1923年9月1日、首都東京を襲った関東大震災に突入します。震災後になりますと、去る1920年頃から始動した純映画劇運動の成果、バラック映画館や野外劇場の増設に伴う映画の普及、並びに映画製作の見直し等々が相重なり、日活京都派全体にも大きな変化が起こります。震災後の日活京都派、並びに日活京都から独立したマキノ派の変遷に就いては、また時間があれば述べる事に致します。乞うご期待。
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