ナスはナスでも、「水ナス」というものの存在を知ったのは、大人になってからだ。
それもそのはず、水ナスは、大阪の泉州地方で多く作られているそうで、今でもその地域の特産なのだという。
「水ナスの刺身、お願いしま~す」
「はい、かしこまりました~」
その日、いつもの居酒屋のメニューに載っていたのが「水ナスの刺身」である。
水ナスは、アクが少なくて皮が薄く、実に水分をたっぷり含んでいるのが特徴なので、生で食べてもおいしい。
だからこの店では、生の水ナスを薄くスライスして「刺身」と称している。
ほどなくして登場した「水ナスの刺身」
濃い紫色の皮をまとった白い実のスライスが、茶色の和皿に整然と並んでいる。
その上に、細かなかつお節がかけられ、薬味にはすりおろしたショウガが添えられていた。
「刺身だからね。コレ、使って」
店主はそう言うと、小さな醤油皿を差し出した。
「ナスに直接お醤油かけちゃってもいいんでしょ?」
「いいけど、一応、刺身だからさ。この方が刺身って感じがするだろ?」
「確かに!」
私は小皿を受け取ると、そこに醤油をさし、ショウガを入れた。
水ナスを2切れほど、箸でつまんでショウガ醤油に少しつける。パクリ。
「ん~、おいしい~。ちょっと甘みがあるんだよねぇ、水ナスって」
水ナスの刺身をつまみに、夏の日本酒をいただく。季節を味わう和食ならではの楽しみだ。
「んで?あのLINEの意味はなんやの?」
「え?だから、そういう意味よ」
後方のテーブル席から、関西訛りの男性の声と、落ち着いた低めの女性の声がした。
声の主は、40代くらいの男女。チェックのシャツに細いデニムパンツの男性と、白いサマーセーターにスカートをはいた女性である。
ふたりは、日本酒を飲みながら話し込んでいた。
「そういう意味って…今日が最後って書いてあったやん!」
「そう。今日が最後」
「なんで?オトコでもできたんか?」
「ううん。できてないわよ」
「んじゃ、なんで?今までどおりではアカンのか?」
「だって、アナタ、お仕事忙しいんでしょう?」
「そうやけど…忙しくっても、会うてるやん」
「忙しいのに、私と会ってたら、休むヒマがないでしょ?」
「休むヒマ?ちゃんと休んでるし!」
「それに、私と会うために、いつも小さなウソをつかなきゃいけない」
「それは…。仕方がないことや。今までだって、そうしてる。それやのに、なんで急に今日で最後なん?」
「あのね、人間って、ウソをつくと、ウソをつきとおすために、またウソを重ねなきゃいけないの。
それって、ストレスでしょ?私は、アナタのストレスを減らしたいの。仕事もプライベートもストレスだらけなんて、死んじゃうわよ」
「そんなら、アレか。オレが嫁はんと別れたら、ウソをつく必要がなくなるわけやな?」
「そうだけど、アナタは嫁はんと別れたりしないでしょ」
「……」
男性は、気まずそうに口をつぐむと、手元の日本酒を一気に飲んだ。
女性は「ちょっと失礼」というと、席を立ち、お手洗いへ向かった。
女性が席を外している間に、男性はスッと会計を済ませてしまった。
「あれ?もう帰るの?もうちょっと飲みたいのに」
席に戻った女性が、驚いたように男性に言った。
「まだ飲むよ。ちょっと連れて行きたい店があるから、とりあえずこの店は出よ」
「はいはい。わかりましたよ」
女性は渋々、帰り仕度をすると、店主に向かって「ごちそうさま」と声をかけた。
「ありがとうございました~」
腕をからめて週末の街へと消えていく、チェックのシャツと白いサマーセーター。
「ねぇねぇ、あのふたり、不倫カップルだったのかも」
ふたりを見送った店主に、私はすかさず話しかけた。
「ん?そうか?」
「うん。だって男の人が、嫁はんがどうのこうの、って言ってたもん。でも、別れ話だったみたい」
「そんな話、してたか?」
「うん、してた。あのふたり、どうなるのかなぁ。仲よさそうだったけど、別れちゃうのかなぁ」
「人さまの恋路に、あんまりクビを突っ込むなよ~」
そう言われても、ああいう話が聞こえてくれば、ついつい耳がダンボになってしまう。
人の恋ほど、酒のサカナに最適なものはないのだから。