左下の文庫本とのサイズ比較。

 

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【ラジオでの将棋対局実況及び將棋講座の変遷】
●1925(大正14)年8月18日&19日:初の将棋対局ラジオ実況。
東京放送局(JOAK)の開局記念(花田長太郎八段vs木村七段)。
●1948~1953年:『室内遊戯の時間』(ラジオ)
●1951年:『室内遊戯の時間』の
第1回NHK杯争奪 将棋トーナメント(ラジオ)
●1954~1961年:『囲碁将棋の時間』(ラジオ)に名称変更。
●1962年:第12回NHK杯争奪 将棋トーナメント(テレビ)

ラジオ将棋講座の歴史については「日本将棋連盟創立100周年誌」

(2024年)の年表にもNHKさんのサイトにも情報が無いので

自分なりに考古学史料も調べてみた。

 

また、当時、ラジオを所持していた人が

どのくらい人生の勝ち組で金持ちだったのかも

知りたくて、当時の状況も合わせて調べてみた。

 

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【日本の景気動向】
●第一次世界大戦:1914(大正3)~1918(大正7)年。
戦争の影響で日本の商品輸出が急増した「大戦景気」=大正バブル。
「暗くてお靴がわからないわ」と探す着物姿の女中さんに
戦争景気の造船業で成功したスーツにネクタイ姿で

太鼓腹の実業家が100円札(現代の20〜40万円の価値)に火をつけ、
「どうだ明るくなつたろう?」と灯してあげてる
風刺画「成金栄華時代」の頃だ。
●1920(大正9)年:戦争が終わり「戦後恐慌」に。
●1929(昭和4)年:ニューヨーク株価大暴落で世界恐慌。
アメリカは公共事業を政府が発注するニューディール政策。
イギリス、フランスはブロック経済政策。
ソ連はスターリンさんの独裁で影響は受けず。
日本はアメリカ向けの主力輸出品であった生糸の価格が暴落し、
特に農村は壊滅的な打撃を受け、東北地方の冷害とも重なり、

娘の身売りや欠食児童の発生など社会問題化した。
波及して企業が倒産し、失業者が増え、
財閥のみが力を持つ「昭和恐慌」に。
国内だけでは駄目で生命線は満州への侵略だという流れとなった。

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【ラジオとテレビの歴史とトピックス】

●1900(明治33)年:カナダの技術者がラジオ発明(音声の送受信距離は僅か1.6km)

●1920(大正9)年11月2日:世界初の公共放送(アメリカ大統領選挙開票結果速報)

●1923(大正12)年:関東大震災

●1925年(大正14年)3月22日午前9時30分:社團法人東京放送局

(JOAK:後のNHK東京放送局)による日本初のラジオ放送

「聞こえますか?

こちらは東京放送局。

アー、アー。

聞こえますか?

アー、アー。
聞こえますか?

こちらは東京放送局。

正午の時をお知らせいたします。

十秒前、五秒前、ぷ~ん

じぇ~い・おー・え~い・け~い…

じぇ~い・おー・え~い・け~い…」

スピーカー型受信機は高価なのでヘッドフォン型で聴いた

ご家庭が多かったらしい。

もちろん日本全国ラジオ無しのご家庭だらけでしょうけど。

●1926(大正15)年、東京、大阪、名古屋の放送局が

「社團法人日本放送協會」に統合。

当初は各放送局を結ぶ中継線がなく、それぞれ独自放送だった。

●1928(昭和3)年:ラジオ体操放送開始。

ラジオ普及率は5%

●探り式鉱石式→電気電子回路の真空管式に変わるも、

高価で取り扱いが面倒で受信者数が伸び悩む

●1930(昭和5)年:全国にラジオ塔(街頭ラジオ)の設置始まる。

●1931(昭和6)年4月6日:東京中央放送局で第2放送開始。

●1931(昭和6)年9月18日:満州事変勃発により戦況と国内情勢の

情報が必要となり、低価格化と品質の向上が進んだこともあり

ラジオ普及に拍車がかかる。

●1935(昭和10)年:ラジオ普及率18.1%

●1938(昭和15)年:オーソン・ウェルズさんのラジオドラマ

『宇宙戦争(The War of the Worlds)』(火星人の地球侵略のニュース速報)

冒頭ではちゃんとドラマと伝えてる風だし、

途中から、部分だけを聴いたとしても全然迫真の演技には聴こえない。

リアルタイムを知る方の証言からも全米がパニックになった

というのは盛り過ぎの気がする。

●1944(昭和19)年:第二次世界大戦末期でラジオ普及率50%超え

●1945(昭和20)年:終戦の年でラジオ普及率50.4%

●1946(昭和21)年:戦後1年でラジオ普及率45%

●1950(昭和25)年8月:東京通信工業(後のSony)さんが

トランジスタラジオ発売。

●1951(昭和26)年:民間ラジオ放送開始。

●1952(昭和27)年4月10日:ラジオドラマ(生放送)『君の名は』

毎週木曜日20時半〜21時1954年4月8日まで全98回。

日没後の放送だが、続きを聞き逃すまいと女性陣が一斉に家に帰ってしまい
放送時間中は、銭湯(自宅風呂の無い時代)の女湯が

空になるという伝説を生んだらしい。

ラジオ普及率は60%

●1953(昭和28)年:テレビ放送開始で街頭テレビも設置。

(大卒初任給1万円、テレビ24万円)

●1950年代半ばからモノクロテレビ・洗濯機・冷蔵庫が家電の三種の神器に。

●1958(昭和33)年ラジオ世帯普及率がピークの82.5%(以降はテレビに移行)

●1959(昭和31)年:正田美智子さん成婚。

●1960(昭和35)年:カラーテレビ放送開始。

価格は大卒初任給の50倍の50万円。

●1960年代に小型・軽量・低消費電力化を実現した
トランジスタラジオの普及が進み、ラジオは一家に一台から
1人に一台の時代になるも、テレビの登場で
情報伝達、娯楽の主役の座は奪われた。

●1964(昭和39)年:東京オリンピック。

●1966(昭和41)年:ビートルズ来日公演。

白黒テレビ普及率94.4%
カラーテレビ普及率0.3%

●1970(昭和45)年:大阪万博開催。

●1975(昭和50)年:カラーテレビ普及率90%越え

 

 

 

※埼玉県「草加市立草加小学校」の前身の

「草加尋󠄁常高等小學」様の朝禮時のラヂオ体操だ。

1897年(明治30年)10月 創立。

尋常科1年から4年まで+高等科2年。

1908年より、全国的に順次、尋常科1年から6年まで+高等科2年に。

1941(昭和16)年に草加国民学校(初等科、高等科)と改称。

つまり1897年〜1940年までの写真と思われ、

生徒の年齢は6歳〜11歳もしくは

6歳〜13歳ということになる。

 

えらい生徒数が多いな。

 

 

先生も多い。

 

 

平成の子どもたちもこの年代に限っては動画で確認する限り、

全員背筋を反らして、バランスを崩してよろめくほど、

こんな張り切った体操になるっぽい。

 

 

 

1932(昭和7)年のラジオの大賣出しの広告。

紙厚は0.06㎜。

1931年の東京に続いて1933年6月に大阪・名古屋でも

教育専門の第2放送が開始されたっぽい。

 

国家公務員(行政職など)月給: 70〜75円

大卒のエリートサラリーマン月給: 70〜80円

中学校卒サラリーマン月給 :35円

小学校教員月給:50円

東京の一人前の大工の一日の手間賃:2円(月額なら60円くらいか?)

白米10キロ:1円50銭

デパートのライスカレー:20銭

新聞の月額購読料:1円前後

路面電車初乗り:5銭

銭湯入浴料:7銭

こういう当時の貨幣価値を調べても、

32~55円のラジオをどういう稼ぎの方々が購入されたのか、

いまいち分からないんだよなあ。

 

 

右の方は外材のウォールナットを使っている。

 

 

「甲號五分利公債額面百圓」とは1908、1909年頃に

明治政府の発行した国債のことっぽい。

満期は55年後(1963年)らしいし、紙屑の価値になった人が

多いっぽい。

上等絹布団、

銘仙座布団、

箱入り石鹸

等が景品になってるという時点で

財閥向けの売り出し広告では無く、

貧乏一般庶民向けと言えそうだ。

 

 

 

 

 

岐阜県賀茂郡東白川村の僻地に住む方のお話。
1925(大正14)年2月6日。
近年稀な大雪で60尺(18m)のラジオアンテナが折れたので
朝から雪を掻き分けてアンテナを修理した。
電信電話線、電灯線も断線し、新聞も来なくて
その夜は薄暗い蝋燭の灯りでラヂオを聴いていた。
22時10分に突然放送が休止され、國民が待ちに待った
皇孫殿下(大正天皇の初孫=東久邇 成子さん)御降誕の臨時ニユースが
傳へられ、續いて君ケ代の美しい樂の音が響き、
思はず家内一同萬歳を三唱いたしました。
早速、翌朝は村役場や小學校に知らせ、
雪に清められた校庭で祝賀会が挙げられました。
近村では2日も遅れて此のお目出度いことを知つた
所もあつたとのことでした。
大雪で通信断絶の折柄、吉報が即、片田舎まで傳へられてラヂオの
効果を痛切に感じました。

教育の効果もあり、当時の国民が生涯のうち、一度は訪問したいのが

聖地伊勢神宮で、皇族動向が万歳三唱するほどの

推しだった時代だ。

そしてラヂオを所持し、情報通であることが

鼻高々だった時代だろう。

 

Lady Gagaさんの名前の由来、「RADIO GA GA」(1984年)

はQueenのドラマー、1949年生まれのRoger Taylorさんの作詞だ。

My only friend through teenage nights

And everything I had to know

I heard it on my radio

You had your time, you had the power

ラヂオはティーンエイジャー・ナイトのマイ・オンリー・フレンドだった

知らなくちゃならないことは全てラジオから聴いた

ラヂオがパワーを持っていた時代があった、

と歌われている。

その親世代の方々、すなわちラヂオ草創期に

立ち会った方々の時代は更に

娯楽も情報も少なく、ラヂオに絶大な力が

あったのでなかろうかと思える。

 

 

名古屋城は親しみを込め別名「金城」と呼ばれており、

「金城師團(きんじょうしだん)」とは名古屋市に司令部が置かれていた

主に東海地方(愛知・岐阜・静岡など)出身の兵士で構成されていた

大日本帝国陸軍の第3師団のこと。

「千古の国難(せんこのこくなん)」とは、「永遠に消えないほどの

国家の危機や災難」のこと。

「ご恰も月ご日」は五月五日のことっぽい。

1904(明治37)年5月9日に日露の役に際して

10時20分にラヂオの臨時ニュースで「金城師團」

に召集命令が下り、機敏に17時20分には令状を受け取り、

町内の人員も42名召集できて職責を果たした喜びは終生

忘れることが出来ない、と。

 

 

 

ラヂオは高い贅鐸なものと考へられたのは昔の事で

此頃では安く取付が出来ます

然も毎日毎晩聴いてタツタ一圓の聴取料です。

御参考までに各種受信機一揃の概略値段を書いてみます

鑛(鉱)石式は金十圓

受話器付眞空管一球式は金二十五圓

ラッパ付眞空管二球式は金五十五圓以内

ラッパ付眞空管三球式は金六十五圓以内

凡そ前記の値段にて受信機及附属品は

相當確實なものが付きます。

(運賃、旅費の實費は別)

真空管式は大型で発熱するのが欠点みたい。

真空管を5本使用した「5球スーパー」が最後で

トランジスタラジオ登場により1967年頃に

大手メーカーでの生産・販売終了ですと。

 

【聴取料の変遷】

放送開始の1926(大正15)年:1圓
1932(昭和7)年:75銭
1935(昭和10)年:50銭
1953(昭和28)年:「受信料」と名称変更:
ラジオ50円、テレビ200円
1968(昭和43)年:廃止

 

電池の詰替にお困りの方は
蓄電池の充電(ツメカエ)は自家で為されると
煩雜が省けて一層便利です。
此の充電器には色々な種類がありますが
比較的安價で故障の少ないのは
タンガー式充電器で一個が金十八、十九圓です。
米国製は廿五圓くらい。
三人位で一臺を共同してお求めになり、交るヽ充電すれば
安くいきます。

真空管のフィラメントを温めるための「A電池」と
電子を飛ばすための高電圧の「B電池」の
2つの電源が必要だったらしい。
https://ameblo.jp/atti4050/entry-12506839641.html

取扱いが危険そうだwww

ラジオの受信機購入して、ラジオのバッテリー充電器購入して

玄関に受診許可証を掲示して、受信料も支払って

18mものアンテナを屋根に立てて

故障もする、と。

金も手間もかかって面倒そうだ。

 

 

 

 

戦前と思われる電器屋さんの広告葉書。

高級品65円~30円くらいまでの品揃えがあるそう。

「エリミター」は廉価品かな?

底値は5円っぽい。

電氣式とわざわざ補足してるが、電気式でない

ラジオ受信機なんてあるのだろうか?

他店購入のラジオも修理は50銭均一ですと。

聴取料が50銭とも書かれているし、

1932(昭和7)年よりも後の時代の広告だろう。

ラジオの故障が多いということ、

他店購入のラジオ修理はお断りの店もあったことが分かる。

 

日本ビクター様のトレードマークの

ラッパの音響機器を覗き込む犬のイラストだが

ラジオじゃなくて蓄音機らしい。

客の足も噛もうとするので工具から名を取って

ニッパーと名付けられた雑種犬がいて

飼い主が亡くなった後にイラストレーターさんが

引き取ったそう。

で1898(明治31)年に亡き飼い主の

声がする蓄音機のラッパを不思議そうに覗き込む

犬の絵『His Master's Voice』を描いたものですと。

 

 

1939(昭和14)年改正の仙臺中央放送局様の放送時刻表。

75×122㎜。

 

 

↑仙臺中央放送局様の電波が届くのかは分からないが

旭川から鹿児島まで何らかのラヂオの電波は届くっぽいな。

 

 

文字のフォントは6ポイントである。

 

 

 

 

 

學校放送1937(昭和12)年11月22日〜12月17日までのプログラム。

 

 

 

「猿蟹合戦」、「雪」(猫は炬燵で丸くなる)←家猫飼ってて

炬燵があったのか?

とか知ってるものもあるが、よく分からないものも多い。

田山花袋さんやベートーヴェンさんも紹介されている。

 

内務大臣・馬場鍈一さん(1879~1937年58歳)のお話。

皆さんも毎日先生方やお家の方々から、こんどの志那事變の

ことに就て、色々とお聞きでせうが、我帝國は、前々から、

どこ迄も志那と仲好くし、東洋の平和の爲、世界の平和の爲に、

お互に手を握り合つて行き度いと考へ、出來るだけ、さういふ風に

力を盡(つく)して來たのですが、志那の政治をあづかつてゐる人々や

軍人などは、日本の本當の氣持が分からず、無暗に約束を破つたり、

亂暴なことを仕掛けたりして、それはひどいことをして來たのです。

どんなひどいことをしたかの具体的説明が無い。

 

そこで我國としても、仕方なく軍隊を出さなければならなくなつた訣

(わけ)です。

ですから、この戰は決して志那をいじめようとか、正直な

罪のない澤山の志那の人々をやつつけようとかいふのではないので、

志那が一日も早く今迄の間違つた考へを、綺麗さつぱりと捨てゝ、

どうして自分の考えを正しいと言い切れるのか?

 

本當に日本の好いお友達になつて貰ひ度いと思ふ氣持から出た

戰なのです。

これこそ眞の正義の爲の戰といふのでせう…

皆さんのお父さんやお兄さんや親類やご近所の方々で戰地に

行つてゐられる方も随分あらうと思ひますが、

戰地では喰べ物は不自由ですし、飲み物はなし、

寒さはひどいし、道路(みち)は惡いし、

とても言葉にいひ盡せないやうな苦しみや辛さを

嘗めながら、戰をしてゐるのです。

かういふ人々のお骨折はどんなでせう。

畏くも(かしこくも=恐れ多くも)明治天皇には戰地にある

軍人(いくさびと)の骨折をお偲び遊ばされて

「寝覺めしてまづこそ思へつはものの

たむろの寒さいかがあらむと」

「よとともに語りつたへよ國のため

命を捨てし人のいさをを」

數々の有難い御製をお詠み遊ばされて居ります。

皆さんは、これから先の日本を背負つて行かなければならない

大事な人たちです。

皆さんの心も體も、皆さんだけのものでなく、

同時にお國のものなのです…

 

 

 

 

 

名古屋中央放送局様のパンフレット。

キャッチコピー<ラヂオは戸毎に>

「ラヂオ」表記の時代のものだ。

 

 

ラヂオの使命は

1)國民精神の涵養(かんよう):

水が自然に地中にしみ込むように、

無理をせずゆっくりと時間をかけて養い育てること。

2)國民文化の向上

ラヂオは文化の使途!!

その日其の日を樂しく暮らすために。

常識涵養、人格向上のために。

その日其の日の新しい出來事を早く知るために。

お子さんの過程敎育のために。

非常時に對する正しき認識を得るために。

戦時中は軍国主義を浸透させるための強力な

国策政治宣伝の手段として利用されたみたいだけれど。。

 

 

報道ニユース、運動競技報道を5時間強聽いて

教養公演講座を五時間聽いて

和洋の娯楽を三時間半聽いて

子供の時間を三十分聽いて

延べ十三時間聽いて

聽取料金は月五拾錢!!
一日僅か一錢六厘!!

ラヂオの三大特徴。

1)距離の遠近を問はない。

ラヂオの電波は一秒間に地球を七廻り半もする速さー

即ち北海道稚内から九州の鹿児島までの距離を

一秒間に四十七往復する速さですから

世界の出來事迄も一瞬に聽え、世界の大勢に通ずることが出來る。

2)場所の如何を問はない。

ラヂオの受信機ひとつあれば、山間僻地にあつても

居ながら種々の事が聽ける。

 

 

東郷平八郎元帥(げんすい)が東京の自邸から放送された

講演は全國民が銘々の家庭にて一瞬に聽くことが出來た。

3)階級の如何を問はない。

上は尊き御方から下國民一般に至るまで

同じものを同時に樂しむ事が出來る。

上野音樂学校の御前演奏にマイクロホンがある爲に

美しくアノ光栄ある音樂を居ながら我々も聽くことが出來た。

非常時とラヂオ。

天災地變其の他非常事變の場合にラヂオのニユースは

唯一の正確な速報機關です。

吾々は一朝有事の場合の爲め、

豫め備へなければならぬ。

 

 

常識涵養のラヂオ。

ラヂオは決して勉强の邪魔になるものではありません。

各中學校生徒の家庭を調べましたる處、

半數以上、七、八割もの加入者があることに依つて

証明されます。

然しラヂオも政宗の銘刃も

政宗の銘刃www

使ひ方により、又、良薬にも適度の分量がある如く、

ラヂオの敎養放送を善用すれば決して妨害するどころか

子女の敎養及大人の常識涵養の機關として各家庭に

設備しなければならないものです。

 

 

ラヂオは平常生活の必需品。

どの御家庭でも御取付下さい。

迷はず選べ認定受信機。

ラヂオの取付は必ず許可を得て。

受信機は今日では比較的僅少の費用で

能率の良いものが得られます。

 

 

何だかんだ言いつつ、感度が悪いっぽい。

 

 

 

 

 

「ブッポウソウ」の鳴き声の収音放送っぽい。

 

 

漫才から落語からラジオドラマまであるいっぽい。

 

 

落語もラジオドラマも見当たらないけれど。。。

 

終戦時2歳だった福岡県生まれの生き証人様にお伺いした
面白過ぎた内容。
原爆が福岡県に投下されていたら生きていない。
当日福岡県上空が曇っていて命拾いした。
姉弟妹は全部で六人。
家は貧乏だったが、物心ついた時からラジオはあった。
ニュース、歌謡曲、男と女の掛け合い漫談(?)等を
聞いていた。
父は硬派な政治討論(?)とかを聞いていた。
蓄音機とかは無かった。
弟が野良犬を連れて帰り、自宅内に隠していると
父が遠くまで捨てに行った。
犬の方が父より先に戻って来て、犬をまた隠して
チャップリンのドタバタコントみたいだった。
父は本が好きで図書館から借りて来ていた。
新聞は朝刊も夕刊も配達してもらっていた。
自宅には自転車もあった。
自転車を近所の人に貸してと言われたら断れない時代だった。
醤油は瓶を持って買いに行く時代だった。
父は身体は丈夫だったが目が悪く、徴兵検査で落ちて
戦争には行かなかった。
徴兵で男がいない時代に父は天涯孤独の身の上と
大ウソをついて、仲人にこんな良い人いないということで
戦時中に母と見合い結婚した。
母は結婚式当日、父の顔を初めて見て、
こんな顔なのかとびっくりしたらしい。
後年のある日、本棚みたいな仏壇を父が抱えて帰って来た。
中にはたくさんの位牌が入っていた。
後に戸籍を調べて父が私生児だったとか
色々複雑な家庭環境が分かったが姉弟も訪ねて来るし、母親もいるし
大法螺吹きで母は騙されたと言っていた。
父は戦後は炭鉱で働いていた時期もある。
トロッコで奥深くまで行く給与の良い作業員ではなく、

川上で木組みを送る仕事をしていた。

古河の大きな山なので小さな炭鉱よりは少なかったが

それでも多くのお父さんが事故で亡くなった。

残された親子は保証金が出るのかそのまま暮らせていた。

再婚される方もいた。
銭湯は3×7メートルほどの楕円形だった。

泳いでよく怒られた。

徒歩15分の距離にあるので、せっかく湯船で温まっても

帰りにコチンコチンになった。

男湯は黒く汚れていたらしい。

その湯舟で温まり、最後に流す綺麗な湯が別にあったそう。

会社提供の炭鉱近郊住まいの話は惨めなのであまりしたくない。
姉は昭和レトロは懐かしく好きと言うが、姉のお下がりばかりだった私は
惨めな思い出ばかりが蘇るので嫌いだ。
父は多趣味で映写技師、ちんどん屋などもアルバイトでしており
カメラも持っていた。
ラジオ体操は謎に夏休みのみ朝6時か7時頃に1日1回、
全山(ぜんざん)放送で電柱なんかに設置されてる
スピーカーから流れていた。
皆が集まるから広場に行って体操していた。

小学校6年、中学校3年の私学の学校に通った。

小学4年までは普通に通えたが妹と弟の子守の為に

小学5年から中学3年までは1日おきにしか通えず

落ちこぼれた。

算数は正の数、負の数、分数、連立方程式など

分かるはずがなかった。

英語もチンプンカンプンだった。
学校にラジオがあったかどうかは知らない。


貧乏な家でも案外、ラジオがあった
一例ということで。