本能寺の変の業火の表紙っぽい。

 

 

 

 

月刊誌「小説歴史街道」1994年1月号から1995年6月号までに連載されたもの。

著者多忙のため単行本化の刊行は延期となり2019年2月に著者は亡くなった。

で、大阪万博直前に発刊されたと。

 

後の本因坊算砂さん=天台法華宗の日海さん、織田信長さんを

登場させるフィクションだ。

日海さんが戦車を作らせるという「戦国自衛隊」みたいな

展開になり、フィクション部分を読むの止めた。

フィクションのラストのみご紹介。

日海さんは本能寺前夜の対局で1万局に1回の出現率の『三コウ』の

形になるように誘導し、『天下の乱れ永劫に続く』という凶兆に

ございますと信長さんに危機を伝えた。

「日海、よういうた。

礼をいうぞ。

しかし、俺は信じはせん。

縁起も呪いも、神も仏も、俺は信じない。

俺は俺の信念を貫くためにこそ生きておるのじゃ。

人間五十年、いずれにしても長うはない」

と信長さんが答えて、物語は閉じる。

本能寺の変で信長さんが亡くなるシーンまでは描かれていない。

 

(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)

 

●全490ページ。

各18章の後には「実録・本因坊算砂」として、

堺屋太一さんが本書執筆の為に調べたであろう、

本因坊算砂情報が記載されている。

●第10章「長篠ーまたは近代のはじまり」の後の

「実録・本因坊算砂」の項は算砂さんとは関係無く、

長篠の戦いの「武田騎馬隊」は事実では無いと解説されている。

海外の方も日本人は戦いの際は馬から降りて徒歩と

レポートされてるそうな。

かと思えば、大橋宗桂さんは信長さんから「宗桂」の

名をもらったとか、本能寺の変の直前に囲碁が打たれたとか

史実では無いとする説には触れられず、

日海さんが本能寺の変のぎりぎりまで本能寺に居たことは

多くの史書や記録に明記されている、

日海さんが本能寺を出てしばらく歩いたところで軍馬の音を聞いた、

などと解説されている。

「二中歴」、「言継卿記」、水無瀬神宮様の「将棋馬日記」、

「諸象戯図式」などなど、色々と勉強はされてるっぽいが

「実録・本因坊算砂」の項まで史実と創作が

混ぜこぜでは滅茶苦茶と思った。

●1561年~1587年までの26年間の間に

算砂さんと大橋宗桂さんが深く関与し、

将棋の『取り駒使い』のルールが発明されたに違いない

と推理されてる模様。

●算砂さんと大橋宗桂さんの将棋の対局棋譜は

全8局で大橋宗桂さんが7勝1敗と勝ち越してるが

将棋家元の大橋家が管理していた記録なので

将棋最古の棋譜でもある1608年1月28日(80手で算砂さんの勝ち)の棋譜を

除き、開祖の勝ち棋譜のみを大切にしたとも考えられる、

と解説されている。

将棋最古の棋譜は異説なく1607年とされてると思うので

謎過ぎである。

棋譜は8局だが、対局記録は、もっと残っているので

そこら辺は調査不足かもと思った。