縦長特殊形状の紙盤(星有り)サイズは

下の「ねこまど将棋盤」と比較してください。

紙盤は何度も押さえつけて折り目の山谷を伸ばして

フラットにしてあげたら少しは良いかもだけど、

駒が動くし、めっちゃプレイし難いです。

駒も軽いし屋外で微風で容易に盤面がちゃぶ台返しに

なりそうです。

当時の現地の兵隊さんはこの紙盤を使われたのかなあ?

地面に盤書いた方がマシな気がします。

 

 

こんな紙質。

 

 

厚みは0.09㎜。

 

 

『天童將棋駒特撰歌』

將棋の駒の組立を

心に留めて誰も見よ

金銀桂馬飛車や角

香車歩兵と其れゞに

役目定めて己が行く

道一筋の外は見ず

前後左右に駈け廻り

討死するも返見りず(←返見ず??)

攻め斃(たお)れるもものとせず

命を捨てゝ働くも

一人の王を守る爲め

一ッの盤を保つため(←繰り返しを避けて変化をつけたか「為」が平仮名に)

 

 

元書き子の久徳(伊藤孝蔵)さん等の座談会話が面白いです。

寺子屋みたいに王将を書く師匠が中央にいて、

その下に飛車角を書くまでに昇進した師範代がいて、

見習いは歩ばかり千枚書いて出来の良い子で

工賃はわずか3銭とかの時代もあったそう。

それでもどこの家も貧乏だったから家計の一助として

皆学校から帰ると当たり前にやっていたと。

天童の駒作りの最盛期は戦時中の慰問駒作りの時期。

ほとんどの慰問袋には将棋駒が入っており、

書き駒をやっていた者もスタンプ駒作りに回され、

納期が遅いと問屋や軍にせっつかれ、

幾ら作っても間に合わなかった。

 

1910(明治43)年:足踏み式荒切り機械

1919(大正8)年:電力による玉切り、子割り仕上げ機

1932(昭和)7年:手押し仕上げ機

1940(昭和15)年:大阪からの依頼で押駒製造開始

1941(昭和16)年:戦争勃発で慰問駒の量産

1946(昭和46)年:草書体→楷書体が中心に

1985(昭和60)年:鉈切り成形終了

 

伊藤さん「私も戦地で経験しているんです。

我々兵隊にとっては将棋駒が無いとえらく寂しいんですね。

陣地を移動する段になると、とにかく荷を軽くするために

例えば将棋駒でも捨ててしまうんですね。

で、新しい駐屯地に来ると今度は将棋駒が恋しくなる(笑)

で、故郷に手紙を書いて直接送ってくれなんてことになる。

この頃の駒はほとんどが裏が赤字の源平仕様だったので

その頃に将棋を覚えた世代が天童を訪ねて来て、

駒裏朱のものは無いのかという注文が結構あるんですよ…」

 

 

肉眼で見た色合い。

化学繊維ではある。

戦地の兵隊さんを思って心を込めて

作ったはずだが、現代の眼で見ると粗末な作りで

片手では特に巾着の口の開閉の操作がし難い。

広げようとして、破れて損傷しそうな感触である。

 

 

何故かノーライトではこんな色合いに写ってしまう。

戦前の1937年に既に「天童町将棋駒工業組合」が結成されてるし、

「天童物産館」なんてものもあったのですね。

 

 

レトロな「將棊駒」表記になっている。

 

 

肉厚板目の草書体の駒の材質は何だろう?

 

 

バリ取り処理はされておらず、ラフな作りだ。

 

 

豆駒(雛駒)仕様で驚いた。

 

 

 

 

玉は無く、珍しい双王仕様。

あまりに忙しくて玉を入れ忘れた疑いもあるけれど。。

文字の位置ずれはマッハ押ししてるし、デフォルトだろう。

機械で駒木地の成形は行ったのだろうが

ラフな作りながら、ちゃんと駒の種類ごとに

フォルムを変える面倒なことをしてるし

凄くはあるなあ。

 

 

 

駒裏は黒。

 

 

良品判定基準は戦時中品質もあり、相当に甘い。

 

 

当時の戦地の兵隊さんたちは

これでも何とも思わなかったのかなあ?

 

 

材種は何だろう?

1円玉2枚分の重量と軽い。

 

 

歩は1円玉以上に軽い。