全50ページ。

文庫本とのサイズ比較。

 

 

みちのく豆本刊行たより。

著者のご病気のこともあり、急いで発刊された感じでしょう。

 

 

裏表紙。

 

 

限定680部中のNo.562冊らしい。

 

 

目次。

写真は3枚。

1)竹内淇洲八段

2)長坂六之助八段

 

 

3)関根名人の『錦旗駒』の姉妹駒

特に好みじゃ無いなあ。

 

 

 

1904年(明治37年)に関根金次郎八段が

山形県酒田市の竹内丑松(号:淇洲)さん宅を訪れ

将棋の駒を贈られた。

 

竹内家は酒田市の民間の大金持。

代々、将棋の名手を輩出した。

祖父:伊右エ門三段

父:八世の為之助(後に事情があって伊蔵と改名)五段は

明治11(1878)年8月23日に31歳で亡くなった。

 

言い伝えでは竹内家には将来名人になると思われる者に贈るという

遺言があるもののその人に巡り合わぬまま

歴代当主が子孫に伝えてきた秘宝の将棋駒があった。

竹内丑松さんの代になって対局の結果、

長い間待ち望んでいた名人の器に出会えたと確信し、

関根さんに駒を贈った。

関根さんは全国を遊歴したがその駒を使うと

向かうところ敵無しだったところから

誰言うとなく「錦旗の御旗」、錦旗の駒と

称されるようになった。

1935年に読売紙上で最後公式戦となる香車落ちを

花田長太郎八段と指した。

菅谷北斗星さんが観戦記で錦の袋から錦旗の駒が

盤上にぱらりと広げられ使われたと書かれている。

ここで目撃されてる方がいたわけだ。

 

黴がはえてる状態だったと書かれてるし、ひどい保存状態だwww

 

竹内家に助けられた修験者が諸国修行中に素晴らしい将棋の駒になる

何とも云われぬ芳香の名木と出会い、

お礼に竹内家に持参し、その材で作られたのが家宝の駒らしい。

黄楊は芳香は無い気がするのだけど。。

 

渡辺東一八段から

何という山で採取された木材か、

材種は何か、

と問い合わせを受けたが伝説の常として

真偽も分からぬと答えた。

錦旗の駒は姉妹2組で一対となっている。

1組は関根名人に贈り、もうひと組は晩年の弟子である

筆者が譲り受けた。

淇洲先生の話では祖父伊右エ門の言いつけで

鳥海山麓に自生する黄楊を材料に淇洲さんが文字を書き、

鉄砲屋の鈴木朝吉さんが製作したものと。

 

明治元年の将棋駒は金竜、真竜が主で

水無瀬型が稀にある程度だった。

祖父伊右エ門さんはこれらに満足せず独特の駒を作ろうとした。

偶然、薪に混じった黄楊を発見し、その堅さに驚き、

駒を作り始めた。

鳥海山麓、飽海郡田沢村大字坂本(現在の酒田市)

あたりの山中に自生する黄楊の自生の北限である

鳥海黄楊だった。

現在は天然記念物に指定され切ることが出来なくなったが、

以前は薪に混じって切り出されることがよくあった。

木の性質はあまり上等とは言えないが、

非常に堅く、使い込むにしたがって艶を増し、古い象牙に見間違うような

何ともいわれぬ光沢が出た。

書は松浦謙吉、

市原平三郎(谷邨こくそん)、

山口半峰と作らせたが意に満たず、

淇洲さんが書かされた。

伊右エ門さん76歳は駒の完成を見ずに

明治32(1899)年10月5日に亡くなった。

 

父為之助さんは14歳の時に父親に連れられて温海に湯治に行き、

鶴岡藩士の長坂六之助六段の知遇を得て将棋を習った。

為之助さんはその後、家元の大橋宗桂門に入門し

17歳で二段、22歳で五段を許され、仙台の玉川保次郎さん、

京都の平居寅吉さんと数十局対局した棋譜が残っている。

平居寅吉さんは天野宗歩さん取り立ての棋士で

為之助さんは明治8(1875)年10月5日から明治9(1876)年

4月までの7か月間に300局ほど指している。

平手から始めて、半香になり、香落ちまで指し込み、

香落ちで二番勝ち越していた。

伊蔵(為之助)さんは詰将棋にも優れており、

「将棋奇攻」百番の製作を試みている。

50局が完成、未完が30数局。

息子の淇洲が修正補訂して百局にまとめた。

筆者もその作業を手伝った。

 

酒田市の将棋が盛んなルーツは長坂六之助六段である。

学問にも優れていたが泰平の世で不遇で

その悶をいやす為に酒と色に耽り、

殿様から三年間の閉門を食った。

その間に自分で将棋駒を作り、

棋書を読み、将棋の研究をした。

後に許されて世に出ると相手になる者はいなかったらしい。

11代大橋宗桂さんとも親交があり、弟子の

天野宗歩さんも庄内の六之助六段を訪ねている。

秋田で病気になった宗歩さんが金に困り、

無心する書状には当時の地方棋界の様子が

細々と書かれている。

湯の浜で二人は対局した。

飛角交じり(長坂六之助六段の上手)で数局指して

勝敗相半ばになっている。

 

長坂六之助六段は11代大橋宗桂さんの死去と

後継者と考えていた伊蔵さんの死に逢い力を落とし、

伊蔵さんの息子の丑松さんの成長を見守ったが

明治35(1902)年12月に91歳で亡くなった。

 

丑松さんは2歳で父を亡くし、祖父に育てられた。

6、7歳で見よう見真似で将棋を覚えた。

16、17歳頃には二段くらいの棋力があった。

明治35(1902)年8月に井上義雄七段の平手の

指導で散々負かされ天下の広大さを思い知らされた。

 

専門棋士で無い淇洲さんは大崎熊雄四段の

弟子入りを断っている。

 

錦旗の駒は関根名人没後に甥の渡辺東一八段に形見として

贈られた。

戦後に事情があってその駒は後援者の

安宅英一さんに贈られた。

その時に問い合わせを受けた。

1)竹内丑松さんは竹内家の何代目か?

2)錦旗の駒が関根名人に贈られた年月日は?

3)当時の関根さんの段位は?

4)駒にまつわる修験者の話は事実か?

5)事実なら「とある山中」とは何という山か?

6)名木は何という木材か?

伝説の部分は話術の巧みな加藤恵三六段あたりの

創作であろうと返事した。

 

錦旗の駒は姉妹駒と全く同じと淇洲さんに聞いたが

本物を見た事は無い。

錦旗を模して作ったと言われる大阪の市販駒は

書体が少し異なっている。

渡辺東一八段に写真でも良いので見せて欲しいと書き送ったが

返事は無かった。

昭和25(1950)年の東京松坂屋の将棋展では

筆者の姉妹駒の出品を乞われたが機会を逸した。

昭和42(1967)年日本橋の白木屋での「将棋四百年展」では

姉妹駒、大橋宗桂さん、宗金さん、大橋宗珉さん、伊藤宗印さん、

天野宗歩さん、渡瀬荘治郎さんの書簡等の資料を出陳した。

 

錦旗の駒も出品される予定だったが実現されなかった。

安宅(あたか)英一さんの手元にあると信じられているが果たして

どうかと危惧されているフシがある。

 

安宅英一さん:

総合商社安宅産業の会長で実業家。
1901年1月1日~1994年5月7日(93歳)。

芸術家のパトロン・美術品コレクターとしても知られた。

 

 

山形県の図書館には蔵書がある模様です。