天守閣美濃の創始者は新手メーカーの松浦卓造八段で

1960年A級順位戦の対加藤博二戦が初とは初めて知った。

開始日時:1960/10/11 9:00:00
棋戦:順位戦
場所:東京「将棋会館」
持ち時間:7時間
手合割:平手
先手:松浦卓造八段
後手:加藤博二八段
戦型:向飛車
手数----指手---------消費時間--
1 2六歩(27) (00:00/00:00:00)
2 3四歩(33) (00:00/00:00:00)
3 7六歩(77) (00:00/00:00:00)
4 4四歩(43) (00:00/00:00:00)
5 2五歩(26) (00:00/00:00:00)
6 3三角(22) (00:00/00:00:00)
7 4八銀(39) (00:00/00:00:00)
8 3二銀(31) (00:00/00:00:00)
9 5六歩(57) (00:00/00:00:00)
10 5四歩(53) (00:00/00:00:00)
11 3六歩(37) (00:00/00:00:00)
12 4三銀(32) (00:00/00:00:00)
13 5八金(49) (00:00/00:00:00)
14 2二飛(82) (00:00/00:00:00)
15 3七桂(29) (00:00/00:00:00)
16 6二玉(51) (00:00/00:00:00)
17 4六歩(47) (00:00/00:00:00)
18 7二玉(62) (00:00/00:00:00)
19 6八玉(59) (00:00/00:00:00)
20 8二玉(72) (00:00/00:00:00)
21 7八玉(68) (00:00/00:00:00)
22 7二銀(71) (00:00/00:00:00)
23 9六歩(97) (00:00/00:00:00)
24 9四歩(93) (00:00/00:00:00)
25 1六歩(17) (00:00/00:00:00)
26 1四歩(13) (00:00/00:00:00)
27 5七銀(48) (00:00/00:00:00)
28 5二金(41) (00:00/00:00:00)
29 6八金(58) (00:00/00:00:00)
30 4二飛(22) (00:00/00:00:00)
31 8六歩(87) (00:00/00:00:00)
32 6四歩(63) (00:00/00:00:00)
33 8七玉(78) (00:00/00:00:00)
34 7四歩(73) (00:00/00:00:00)
35 7八銀(79) (00:00/00:00:00)
36 6三金(52) (00:00/00:00:00)
37 4五歩(46) (00:00/00:00:00)
38 8四歩(83) (00:00/00:00:00)
39 2四歩(25) (00:00/00:00:00)
40 同 歩(23) (00:00/00:00:00)
41 4四歩(45) (00:00/00:00:00)
42 同 銀(43) (00:00/00:00:00)
43 4五歩打 (00:00/00:00:00)
44 5三銀(44) (00:00/00:00:00)
45 3三角成(88) (00:00/00:00:00)
46 同 桂(21) (00:00/00:00:00)
47 2四飛(28) (00:00/00:00:00)
48 4六歩打 (00:00/00:00:00)
49 2三飛成(24) (00:00/00:00:00)
50 4七歩成(46) (00:00/00:00:00)
51 6六銀(57) (00:00/00:00:00)
52 3七と(47) (00:00/00:00:00)
53 2二角打 (00:00/00:00:00)
54 4五飛(42) (00:00/00:00:00)
55 3三角成(22) (00:00/00:00:00)
56 4九飛成(45) (00:00/00:00:00)
57 4四歩打 (00:00/00:00:00)
58 4二歩打 (00:00/00:00:00)
59 4五桂打 (00:00/00:00:00)
60 同 龍(49) (00:00/00:00:00)
61 3四馬(33) (00:00/00:00:00)
62 4九龍(45) (00:00/00:00:00)
63 6一馬(34) (00:00/00:00:00)
64 同 銀(72) (00:00/00:00:00)
65 2一龍(23) (00:00/00:00:00)
66 7二角打 (00:00/00:00:00)
67 1一龍(21) (00:00/00:00:00)
68 1九龍(49) (00:00/00:00:00)
69 7七桂(89) (00:00/00:00:00)
70 8三香打 (00:00/00:00:00)
71 9五歩(96) (00:00/00:00:00)
72 同 歩(94) (00:00/00:00:00)
73 9八香打 (00:00/00:00:00)
74 4八と(37) (00:00/00:00:00)
75 9五香(98) (00:00/00:00:00)
76 同 香(91) (00:00/00:00:00)
77 同 香(99) (00:00/00:00:00)
78 5九と(48) (00:00/00:00:00)
79 9三歩打 (00:00/00:00:00)
80 9四歩打 (00:00/00:00:00)
81 同 香(95) (00:00/00:00:00)
82 6九と(59) (00:00/00:00:00)
83 9二歩成(93) (00:00/00:00:00)
84 7三玉(82) (00:00/00:00:00)
85 7五歩(76) (00:00/00:00:00)
86 9五桂打 (00:00/00:00:00)
87 9六玉(87) (00:00/00:00:00)
88 6八と(69) (00:00/00:00:00)
89 9五玉(96) (00:00/00:00:00)
90 7八と(68) (00:00/00:00:00)
91 9六歩打 (00:00/00:00:00)
92 8九龍(19) (00:00/00:00:00)
93 投了 (00:00/00:00:00)

 

 

対向かい飛車で「舟囲い」→「箱入り娘」からの「天守閣美濃」。

 

 

「八幡美濃」のヒントは広島県三原市の「​皇后八幡神社」

だろうな。

 

 

 

「あとがき」:

本書は1968年1月号から2年間に渡って「将棋世界」に連載したもの。

1編のみは別に「将棋世界」に発表したもの。

23名の現役棋士、2名の引退棋士の逸話。

山本亨介さん著「名棋士名勝負」 (1965年)は明治・大正時代の

12名の棋士の逸話を書いたもの。

1)中原誠八段

2)加藤博二八段

3)加藤一二三八段

4)花村元司八段

5)原田泰男八段

6)大野源一八段

7)関根茂八段

8)山本武雄八段

9)二上達也八段

10)有吉道夫八段

11)清野静男七段

12)五十嵐豊一八段

13)塚田正夫九段

14)熊谷達人八段

15)大山康晴名人

16)灘蓮照八段

17)本間爽悦七段

18)坂口允彦(のぶひこ)八段

19)松田茂行八段

20)丸太祐三八段

21)松浦卓造八段

22)岡崎正明七段

23)板谷四郎八段

24)山田道美八段

25)大友昇八段

 

(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)

 

1)中原誠八段20歳。

愛称はマコちゃん。

観戦記者の立場で見ると評判通り、無口ではにかみ屋に見える。

対局中に相手の顔を見るのはすごくファイトのある時。

子供時代、兄弟子の芹沢さんあ日曜に将棋を指してやっていた。

一番終わると「おしまい!」と突っぱねたが

負けましたと頭を下げるが早いかすぐに中原さんは

もう1局教えて欲しいと駒を並べ直していた。

どんな将棋でも一生懸命指す点は将棋の虫と言われる

山田道美さんも真似できない。

無駄と思える変化の隅々まで読んで、悪くなっても

崩れない将棋。

1965年四段昇段で1967年11月当時は83戦70勝で

勝率は8割1分強。

五段昇段4月からこの日までは35戦31勝で

勝率8割5分強。

制度が異なるので大山さんとの比較は出来ないが

戦後の新記録と思われる。

周囲の先輩たちの中原さん評は良いが、

私は同世代の中でひとり抜きん出て、

中原さんがふと孤独感に苛まれないか

心配になってきた。

砂を噛むような味気ない疎外感を

この青年はどのようにして克服して

ゆくのだろうか?

対局前日は、いつもは映画を観に行ったりする。

いつもは23時に布団に入り24時に寝るが

名人とこんなに早く初手合いが来るとは思わず、

昨日は気持ちが高ぶり、1時頃寝たようで

今朝の対局も朝は眠かった。

高校生の規則正しい

か生活が身についてるので

夜更かしが苦手で、師匠によると徹夜に

強くなって欲しいとのこと。

1日のうちでは普段は将棋のことは考えていない。

2時間ほど棋譜を調べ、詰将棋を作ったりしている。

詰将棋はあまり考えない。

渋谷の高柳道場にクラシックギターをやる人がいて、

その人の影響で趣味はクラシック音楽鑑賞。

現在は師匠の元を離れ、郷里から母親を迎え暮らしている。

 

2)加藤博二八段

身長1m80㎝、体重75キロの巨漢。

将棋会館で会えば無遠慮に「博ちゃん」と話しかけるが

仕事を離れると私には近づき難い存在だった。

律儀、勤勉、優等生のイメージで、

夜の酒場に誘うのは迷惑だろうと思っていたが、

大変な思い違いで、ある日、「新宿あたりで寄り道しませんか?」

と誘われ、二三軒寄り道した。

1954年、2年8カ月の闘病生活から不治の病と言われた

病魔を克服し棋界に戻って来た。

急戦矢倉とか破天荒な戦法が試みられ、大きく変貌しつつある時期で

復帰第1戦は若手相手に手も足も出ず、まるっきり勘が狂っていた。

入院中は新聞将棋欄は欠かさず目を通していたが

相手は気でも狂ったのでは無いか?と思い悩まねばならぬ

ほど遅れをとった。

かつての仲間はA級棋士として活躍していた。

1954年B2 8-5

1955年B2 9-4昇級

1956年B1 6-7

1957年B1 7-5

1958年B1 9-3昇級35歳

なお、療養の必要があり、病院の近くに下宿し、

対局ごとに東京に出た。

1923年名古屋市東区伊勢町生まれ。

竹二郎五段(1946年55歳没)の末っ子。

兄と2人の姉は若くして他界しているので実質は一人っ子。

名古屋商業に進み、1938年、2年の時に中退して

故・宮松門をくぐり、預かり弟子の形で土居市太郎門に転じた。

当時は棋士の月給は大阪は東京の半分で名古屋は更に

大阪の半分だった。

奨励会の友が復員した際には新潟からおにぎり8個を持って

ひとりで札幌まで出掛けた。

青森の青函連絡船は順番待ちで2晩待つほどだった。

再開するや、1週間朝から晩まで指すような青春だった。

二上八段が加藤さんに勝ち、初の名人戦挑戦を決め、

加藤さんのA級からの降級が決まった。

数日は気が重かった。

しかし、自分の力がA級に相応しければまた

返り咲ける。

力が無ければB級で良い。

力相応を考える。

背伸びしないで生きるのが一番楽しい。

もちろん、絶えず向上を望み、名人の座を諦めていないけど。

 

3)加藤一二三八段

血色の良い横顔、太い眉、髭剃りの跡が美しい。

頭髪も綺麗に撫でつけられており、

一本の髪の乱れも無い。

几帳面な人でネクタイは無論のこと、

カフスボタンから靴下に至るまで細い心配りが

伺える。

加藤さんも相手の二上さんも煙草は吸わず、科学者のように

無口に黙々と指し手を進める。

愛称は「ピンちゃん」。

1分将棋で両手を膝につき、続けざまに空咳をして

上体を前後に揺さぶる。

「もう1本道ですからプロなら1分将棋でも間違えませんよ」

と言う。

大山名人は「内弟子修行をして肌で将棋を覚えた自分らの時代の者は

頭で将棋を覚えた若い人達に簡単にやられるとは思いませんね。

あっさり負かされるようでは自分らの将棋が間違っていたと

いうことになる」と語気を強めていた。

二上さんは「人がどう言おうとマイペースで行く」と答えた。

加藤さんは「それは理想だろうし、僕らは確かに

甘いかも知れない」と言った。

18歳でA級。

20歳で名人挑戦。

今にも加藤さんの天下がやって来ると囁かれたが

打倒大山で王将戦、王位戦の挑戦者になるも

28歳になったが二上さん(王将&棋聖)、山田さん(棋聖)に

遅れをとっている。

慎重なので中盤で1分将棋に追い込まれることも稀では無い。

以前は早指しだったが、升田さん、大山さんと対局するようになり

多くの時間を使うようになった。

大事な局面では徹底的に読みたい性分。

 

4)花村元司八段

1968年、7分遅刻(持ち時間から3倍引く)で

あたふたと対局室に飛び込んで来た花村さん。

「気ばかりせいて、車がパンクしまして」とのこと。

1961年の観戦記を調べると雨で車が拾えず遅刻するも、

「いつもは時間は売るほど余るので」と笑い飛ばして

いたとあった。

他にも41分遅れの記録もあった。

よく遅刻するが心から詫び、待ちくたびれた相手の

神経を和らげるように照れ笑いで

「昨今は電車の方が確実かもしれない」と言いつつ、

同じ遅刻を繰り返す。

しかし屈託の無い笑顔で皆つられて笑ってしまい、

憎まれない。

邪気が無く、天真爛漫。

楽天家。

趣味の競輪は月に7回ほど。

10級程度で損するに決まってる。

将棋は実戦で鍛えぬたもので

A級になっても晩に向かって研究したことは無い。

勘と生まれつきのもの。

A級はもう三度目だがもう盛りを過ぎた。

早指し戦の頃の絶頂期にひとつくらいタイトルを

手にしなくてはならなかった。

将棋が好きなので60歳ぐらいまでは持つでしょう。

1955年の早指し戦は大山名人相手の三番勝負だった。

第2戦の前日は遅刻をせぬように連盟に泊まったが

麻雀に誘われ1、2時間の付き合いのつもりが

勝ち続けて義理が悪くて抜けられず、徹夜して

タイトル戦に挑んだと。

対局が済み、感想戦後の打ち上げの麻雀前に

花村さんは5分寝るつもりが30分眠って遅れていた。

花村さんは対局中、煙草をふかし、何の歌か分からないが

流行歌を歌う。

 

5)原田泰男八段

新潟県西蒲郡国上村字中島(現・分水町中島)の生まれ。

良寛さんのふるさとは国上。

原田家は代々、医学一家で、父は教育者で良寛研究者だった。

雪国なので「お湯立番」といって輪番で風呂を沸かし、

近所の者が貰い湯に行く風習があり、

炉端で見よう見真似で7、8歳で将棋を覚えた。

10歳の時に、1時間半かけて汽車に揺られ、

囲碁と将棋の700名規模の合同大会を観に行った。

黒紋付、扇子の関根名人の飛車落ち

指導対局を見ることができた。

どんな偉い人より立派に見えて将棋で身を立てようと思った。

驚く両親に老名人の立派さを説き、

高等小学校卒業後は進学を拒否し、

父と共に溝呂木八段を訪ねた。

そして新婚3カ月の加藤治郎五段を紹介してもらった。

奨励会時代から若者がカフェに行ったり、麻雀の時も

ひとり離れて読書、書の稽古とクソ真面目だった。

近づき難い堅物という評だったが、戦後復員した頃は

堅さがとれ、余技に囲碁をしたり、柔らかみが加わった。

1952年頃は「爆笑青年」と呼ばれ、30歳までに名人を

と宣言する勇ましいA級の花形だった。

連盟愛をふりかざし、自分に厳しいが他人にも厳格で

私は彼に対して逃げ腰だった。

1961年38歳で原田さんは会長になった。

彼は人の長所を見て人の和を求める努力をし続けた。

将棋に関しては駒を捨てることに魅力を感じ、

拾う、受ける、かわす技術を身に着けなかったのが

自分の弱点と分析する。

対局は羽織袴の正装で朝から終局まで一度も正座を崩さない。

いつも関根名人に見られてる気がすると言う。

1968年のB2順位戦。

8勝2敗で昇級を賭けた運命の対局だった。

23時45分に対局相手の佐伯さんが「お手洗いに行っても構いませんか?」

と声をかけた。

原田さんは顔を上げ、「どうぞ」と笑顔を向けた。

佐伯さんは急いで席を立ち、急いで戻って来て

「失礼しました」と礼を言った。

原田さんは無言だった。

原田さんは時間切れ勝ちを狙わず着手せずに相手を待ち、

攻めをしくじって0時47分に投了した。

悪い癖でもう大丈夫と思い、わくわくして

しくじって、やはり口惜しいのですと。

 

6)大野源一八段58歳。(1979年1月14日67歳没)

東京下谷生まれ。

父親は大工の棟梁。

6人兄弟の長男。

1924年に木見金治郎七段門入り。

うどん屋の出前モ持ちもした。

将棋指しになるとは夢にも思わなかったと。

少年時代は「源坊」。

小柄で色が黒い。

今も古い仲間は「源ちゃん」と呼んでいる。

対局の朝は必ず20〜30分前に姿を見せる。

一度も遅刻はしない。

来ないのは退却通知が届いていない時だけ。

汽車に乗るときも30〜1時間前に着いてコーピーを飲んだり

ぶらぶら歩いて時間を潰す。

用心深いのは昔から。

しかし、1分将棋になると日頃の落ち着きを失くす。

そそっかしいのか玉に疵というのが自己評価。

気さくではあるが毒舌家。

馬鹿タレ!この阿呆!素人将棋のくせに!

と対局中もポンポン跳び出す。

しかし、ちっとも腹はタテテおらず不思議。

笑ってしまう。

人柄である。

58歳だが、老人臭を感じさせない。

元気で気持ちも若く、子供のような我が物に混じり、

楽しそうに語り合う。

大野さんは楽しそうに将棋を指すので

盤側にいて緊張で息苦しくならず

観戦記者として遠慮なく雑談を交わせるタイプ。

彼がいると対局室の雰囲気が明るくなる。

よく喋り、よく席を立つ。

しかし話している時も隣の盤を覗き込んでいる時も

深く的確に読んでいる。

捌かせたら天下一品。

大胆な大駒のさばき、切れそうで切れない矢継ぎ早な攻め、

的を絞って一気に殺到する鮮やかな寄せ。

勝っても威張らず、負けてもクヨクヨしない。

大山さん評「1936年頃、新婚当初、一度だけ

負けて悔しがって人目も構わず泣いてるのを見たことがあるだけ」

同じ相手には少しずつ指し手を変える。

馬鹿につける薬はあるのかね?と言えば、

馬鹿とはヒドいぞ、踊る阿呆に喋る阿呆か?と

やり返すようなやり取りが見られる。

振り飛車以外も何でも指すし、何でも知ってるが、

知らん顔してまんね、とのこと。

順位戦の始まった戦後に振り飛車に本腰を入れ始めたと。

B1に落ちてもすぐにA級にカムバックしている。

振り飛車迷人の天才だが1度もタイトルを手にしていない。

何故だろう?

 

7)関根茂八段

1929年1月5日、東京葛飾区生れの戦中派。

アマ時代が長い。

1948年に旧制・東洋商業卒業。

上野の宝ホテルで経理手伝い。

程なく食糧庁東京食糧事務所で農林技官として

米、サツマ芋などの主要食糧の検査をするようになった。

1951年に山川次郎彦七段門。

1954年に四段昇段。

棋界入りが遅く、将棋以外に心を奪われてはいけないと

誓ったが身体を鍛える目的で始めた釣りに

つい深みに入り込んだこともあり、六段で停滞した。

今でも週1で釣りに行っている。

サラリーマン棋士とも呼ばれる。

序盤の形に疎く、ぱっ、とやっちゃう。

 

8)山本武雄八段52歳

富山県生まれ。

1933年金易次郎名誉九段門。

愛称は「山武さん」。

奨励会時代は副幹事。

三段時代は幹事。

戦後は渉外以外は全て担当。

雑誌の発送の雑用も行った。

理事は10年余り。

いつも縁の下の力持ちで彼がいるだけで

人徳で紛争の種が自然と消えた。

奨励会時代1935年頃から読売新聞社専属の記録係になった。

他の奨励会員の半分くらいの対局数になり、昇級も遅くなった。

1937年の木村さんVS坂田さんの南禅寺の対局では

彼は記録係として書院に泊まり込んだ。

観戦記は二段時代から書き始めた。

資料集め、校正まで黙ってこなし、菅谷北斗星さんの

著書の多くで助手として勤めた。

「陣太鼓」のペンネームで独り立ちしたのは1952年以降。

昼は常務理事職をこなし、帰宅して観戦記を執筆し、

それが終わって原稿のまとめに入り、酒豪だったが酒を

口にしなくなり、1966年に「将棋百年」を刊行。

1968年に現役引退し理事を辞職した。

 

9)二上達也八段

1932年北海道函館生まれ。

1949年アマチュア名人戦北海道代表。

1950年、渡辺東一八段門としてつけ出し二段でデビュー。

高校時代に「将棋盤の前に座ると大きく見える」と

言われたのがプロ入りの理由。

1956年に24歳でA級。

タイトル戦出場は18回。

王位と棋聖を大山さんから奪って獲得。

通称は「ガミさん」。

「大山名人は強くて新しいものを創り出す努力をしており、

こちらが新しいものを打ち出してもたちどころに吸収されてしまうし、

歯が立たないが衰えが来た時を狙えば」

と言っている。

 

10)有吉道夫八段

岡山県生まれ。

1951年三級で大山門に。

大山さんの有吉さん評。

返事は良いがそそっかしいところがあった。

勝てば喜び、負けるといつまでも気にするところがあった。

1965年にA級に。

1966年に王位戦で師匠に挑戦(1勝4敗)。

1968年にも王位戦で師匠に挑戦(2勝4敗)。

1968年に名人戦で師匠に挑戦。

3勝2敗から2連敗で名人になれず。

 

11)清野静男七段

1922年8月14日新潟生まれ。

出湯温泉「清平館(旧清平旅館)」の次男坊。

1936年に木村名人門。

少年時代は人一番負けず嫌いだった。

2級時代は負けると青筋を立て、駒と盤を投げ悔しがった。

本人も盤を投げたと照れ臭そうに語った。

6級時代が長く、神田九段が上京の度に相手になってあげていた。

気前が良く、金離れが良かった。

カフェーの好きな女給が出来ると密かに下駄を

贈っていた時代だが、彼は下駄を所望されると

リアカーに下駄を山積みにして、翌日、女給全員に下駄を配った。

本人はまとめて贈ったがリアカーは大袈裟と笑う。

米どころに住むので、食糧難の時代は先輩、同輩に米を贈った。

将棋は形勢が良いと楽観する悪い癖がある。

居玉が多い。

千日手を極度に嫌う。

夜寝て、夢を見ながら詰将棋を作っており、

余詰めも無い完全作が朝起きると1つ2つ出来ている。

実戦派で自分の棋譜も他人の棋譜も並べたことが無い。

1952年七段昇段以降、七段時代が長い。

何かしら抜けており、これではいかんと思い始めている。

以前は遊び過ぎた。

今は酒は少々と競輪は息抜きに少々程度。

やる気になれば指せるという楽天家。

 

12)五十嵐豊一八段

札幌生まれ。

小学6年夏休みに将棋を覚えた。

14歳の時に二枚落ちで関根名人の指導を受けた。

なすすべ無く負けたが翌年リベンジした。

16歳で4級で連盟塾生になった。

4級で2年足踏みし、辛くて辞めようかと思い悩んだ。

師匠の関根名人は「負けろ、負けろ、負けねば強く

なれん」としか言わなかった。

ある日、師匠に小遣いをやるから真剣(仲間とうどん一杯を賭ける)

をどんどんやれと言われた。

20歳の時に兵器弾薬の製造工場に入った。

海兵に入隊した頃は戦局は不利で、新兵は山に入り

武器は手にせず、掘りを掘ったり、陣地を築いたりした。

彼は運良く空襲の危険には一度も逢わなかった。

戦後は25歳でA級入り。

しかし念願のタイトルを手にすることは出来なかった。

 

13)塚田正夫九段

冷徹塚田と評されるように、対局中は

無口で無駄口をきかず、脇目も振らない。

筋肉質の大山さんに対して、痩せて長身。

1947年の名人戦で勝ち運に恵まれて名人になったが

自信は無く、神よ、我に自信を与え給え、と祈った。

しかし気障なので、自信を持てと震える手で揮毫した。

「勝つことは偉いことだ」について。

好局を失っても負けは負け。

愚痴は言わない。

勝負は勝つことにある。

あら有条件を勝ちに持っていくことは偉いこと。

当り前だが『勝つことは大変なこと』。

勝つことは偉いこと。

馴染みの寿司屋に色紙を進呈したら酔っ払い客に

「下手な字」と酷評されてるのを見かけて以来、

色紙には自作詰将棋を書くようになった。

師匠は花村長太郎さん。

 

14)熊谷達人八段

1950年に四段。

五段時代から理事代理でその後10年以上は理事。

1959年にA級八段。

しかし悪性では無いものの難病の「耳下腺混合腫瘍」に

突然襲われ手術を受けた。

顔の形も変わり、将棋が指せる身体では無かったが

休場しなかった。

目薬をさしても目が痛くて盤を見ていられない状態だった。

病後は関西本部の増築に半年関わった。

 

15)大山康晴名人

1952年29歳で名人。

その2年後に早指しが苦手と言われていたが

目標の全棋戦優勝を達成。

1956年に十五世永世名人の資格取得。

夫人には自宅では書き物をしたり、

研究したりする他はただ呼吸しているだけ

と評価されている。

大山家ルールでは子供の喧嘩は理由はともあれ、

先に泣き出した方の負け。

棋士の絶好調は37歳でそこからは体力的にも下り坂と言う。

こんなに長持ちしているのは自分でも不思議だそうな。

 

16)灘蓮照八段

1927年徳島県薬王寺のある町、日和佐生まれ。

姉妹六人に囲まれ唯一の男の子。

先祖は海運業。

有り余るほどの産もなし、

勝負事も滅法強かった家系と言う。

父が大層将棋好きで食事時に呼び出されやらされ、

6歳ではもう覚えていた。

小学4年時では人口7,000人の町では一番強くなっており

子供ながらちょっとした人気者になっていった。

しかし、近くに強豪がいて、基本を叩き込まれていたら

もっと超スピードで強くなったはずと残念がる。

1941年に神田門。

1947年四段。

1949年六段。

旧名は照一。

1951年に七段で棋士として精神的糧を求めて日蓮宗の僧籍に帰依。

(信仰の持ち始めは四段時から)

経典を読み、大阪の星田権現、能登の妙見で

滝に打たれる荒行もした。

檀家は持たず、社会での地位は今でも沙弥のままで動かず。

霊感により、指し手、布陣も教えてもらった。

信仰を抜けばB2止まりであろうと言う。

1953年A級に。

色浅黒。

眉太く、太縁眼鏡。

骨格逞しく、夏は腕まくりして、

腕はスポーツマンみたいに筋肉隆々。

荒法師。

早く指せるうちは早く指し、早指しで負けが込んできたら

考えるつもりと。

揮毫は「棋士生活指二本」。

面倒くさがりで読経するのが面倒で録音テープで

間に合わせたりするのですと。

生臭坊主では無いが聖僧の域にははるかに遠いと

照れ笑いする。

酒は飲めば強いが無くても平気。

正家は酒の小売店。

趣味は付き合いなら車の運転、生花、茶道、

囲碁、麻雀、何でも。

棋士は進んで楽しみで将棋をやるアマチュアの

街中に出向いて行くべきと言う。

面倒くさがりでコツコツ努力を重ねる回り道をつい避け、

A級在位14年で42歳。

タイトル獲得への欲が出たら、と言う。

そして名人戦挑戦者になった。

 

17)本間爽悦七段

「5、6年に一度は爆発を起こして活躍する感じでんな」

と屈託なく笑う。

1919年大阪枚方市生まれで今もそこに住む。

生家は土建業。

プロ入りする気は無かった。

2歳の時に足に激痛を覚えるが手当の限りを尽くすも

治らなかった。

高等小学校を卒業し、両親は印形屋に住み込み、

手に職を持たせたがったが、ハンコ屋にはなりたく無かった。

浪曲家になりたかったが両親が猛反対し、

ふと将棋で身を立てようと思いついた。

枚方市に中井捨吉八段の将棋会があり、升田二段の

二枚落ち指導を受けた。

「磨けば光る将棋かもしれん」との評価に勇気を得て

1935年に中井門に。

10級で入門は遅かったが3年8カ月で初段に。

1943年に五段。

その後は戦争激化で棋界は閉鎖。

戦後は対局場を探し歩いた。

盤も揃わず、寝泊まりする布団も無かった。

寺を借りると藪蚊がひどく、真昼から蚊帳を

吊るして対局するなどの苦労話があったそうな。

1951年に従兄弟の経営するモータ―製造工場に

職を得てモーターのコイル巻きもやった。

居心地が良くてサラリーマンを続け、

共同出資で電気会社を興して役員にも収まった。

会社勤めしながら、将棋を指し、稽古先も11軒回り、

くたくたになり、対局の日は昼休みに寝てしまう。

師匠から大目玉を頂戴し1947年に将棋一本に戻った。

関西奨励会を復活させ監事を引き受け手弁当で出勤し

手合い係も無料奉仕。

酒の飲み過ぎで軽い肺尖カタルで3カ月休場。

1948年に六段。

七段時も対局前夜の深酒で対局中に

脇息に身を寄せ、ついウトウトして先輩の

高島一岐代八段に注意を受けた。

1955年から3年間はB1で連続次点。

あのチャンスを活かせなかったのが生命取りと言う。

あとひと踏ん張りが大変と。

1960年にB2に降級し、翌年B1に復帰。

1964年に棋聖戦の挑戦者になるが大山さんに3連敗。

1967年にB2に落ちて翌年B1に復帰。

攻めて攻めて攻めまくる攻め将棋。

本名の一雄→方彗→爽悦と病気したりして

大した意味は無いが号を変えた。

四児の男の子の父。

近々5人目が生まれる。

子供が間違った事をすると大声で叱り、

長男は幼稚園になってもポカリと殴った。

長男が一人前になるまで現役で頑張る。

目を大切にして電車でも本は読まない。

映画も観ない。

酒量も減らした。

79歳の師匠は酒好きで一緒によく飲む。

30歳下の本間さんは「酒量を減らせば60過ぎても

バリバリやりまっせ」とのこと。

 

18)坂口允彦(のぶひこ)八段

北海道日高(現富川町)生まれ。

14歳で洋服業を営む兄を頼って神戸へ。

1年後に満州を支配する人間になろうと満州へ。

胸を悪くして1年で帰国して洋服屋を辰だった。

ふと将棋クラブに足を運び将棋大会で優勝し

記念に盤をもらった。

もともと将棋好きで強く、席主のプロ入りの

勧めで関根名人の紹介で1927年に19歳で花田門に。

塚田少年13歳が10日先輩。

1928年に初段。

1938年に八段。

現在62歳。

四段、五段の頃からやっていたチェスの世界に

戦後飛び込んだ。

進駐軍が威張っているので頭脳ゲームで負かそうと。

1947年にチェス連盟を作った。

当時の敗戦国日本は外国遠征が出来ず、

世界チャンピオンは断念せざるを得なかった。

1950年にA級として将棋界に復帰。

 

19)松田茂行八段

1921年鳥取生まれ。

1935年金子門下。

1938年初段。

1941年五段。

1941年の伸び盛りの時期に入隊。

4年カ月。

満州、北支、蒙疆に転戦し、3度死ぬ目に遭った。

50人に対し6,000の敵に包囲され苦戦に陥った。

終戦過ぎの10月25日だった。

1947年七段。

麻雀でポンポン振り込むので塚田さんが「無茶茂」の

あだ名をつけたという説がある。

武者茂が転じたという説もある。

20歳頃から酒を飲み始め、1升以下は無い酒豪。

この世で酒が一番好きだが、酒で頭を悪くし、

好調時もタイトルに手が届かなかったと。

猛然とツノ銀中飛車を研究し始め1951年八段。

 

20)丸太祐三八段

1919年東京神田生まれ。

4月20日生まれだが、早く世間に出そうと父が
3月30日生まれに届け出を変えた。

関東大震災で家を失い長野県の祖父の家に疎開。

呉服屋の小僧は嫌で15歳で神田の運動具店で働いた。

将棋は4歳で覚えた。

独りで強くなり10歳の頃は相手が居なかった。

18歳のプロ入りまで将棋は指さなかった。

当時は満州に新天地を求めるブームがあり、

本を買い込んで読み耽り準備したが両親の猛反対に遭った。

夢を失い家でブラブラしていて近所の人に

将棋クラブに連れられて行った。

席主の肝を潰すほど強くて1936年に6級で奨励会入り。

1940年に招集。

5年11カ月。

東満、ハルピン、北満、最後はパラオ島で終戦。

1945年12月26日帰還。

両親は戦災で亡くなっていた。

長兄も戦死していた。

嫁いだ姉のみが健在だった。

1946年四段。

将棋を捨てて人生の再出発を考えていたが

勧められるままに1年将棋を指してみると予想以上に勝って

1948年にはA級八段に。

記憶力抜群で計算に強い。

晩婚で男子をもうけたのは40代半ば。

1969年に会長に。

 

21)松浦卓造八段

1915年広島三原市生まれ。

1935年に一度プロ棋士を志し、向かないと1カ月で帰郷し、
兄と米屋を開業。

1942年で神田門。

1943年28歳で突き出し二段。

1944年四段。

172㎝86㎏で筋肉隆々だが、強度の不眠症と多病に悩まされ

7回も手術。

1948年34歳で肺を患い、療養所生活を対局日のみ

抜け出し将棋を指した。

研究した棒銀は彼の代名詞。

高柳敏夫八段も使い始め、棒銀旋風が棋界に巻き起こった。

1954年40歳で八段。

療養所生活は抜け出せず、胃潰瘍で3回手術。

A級とB1を往復。

酒好きで40代までは三升飲んだ。

50過ぎても一升五号は飲む。

大食漢で本人曰く色気も盛ん。

ただし睡眠時間1~2時間の不眠症が進んでいる。

1960年A級順位戦の対加藤博二戦で左美濃も創案。

故郷の八幡神社に散歩に行き、御神体のある一段

高い形状を見て「天守閣美濃(本人命名は「八幡美濃」)」を閃いた。

相手の加藤さんは「研究家の松浦さんだが変な手と思った」と。

ちょんまげ美濃、がっちゃん銀も終戦直後に試みた。

他人の新戦法と伝えられているが抗議はしないと。

「天守閣美濃」を用いた対局は三番とも負けて

有吉さん、内藤さん、升田さんなど一流棋士も対振りに

用いるようになった。

1969年B1から降級。

入院生活を送り、睡眠薬を飲み過ぎコンディションを崩した。

引退後は植木屋でもやりたいと。

ただし広島に2、3の将棋道場を恩返しに作りたいと。

満身創痍でもまで生きると。

 

22)岡崎正明七段

1907年6月15日大阪生まれ。

生家は金物屋。

近所の仲間集まって将棋を指していた。

初めは板盤で、そのうち母が古道具屋で16銭で

脚付きの盤を買って来てくれて

仲間たちから歓声が上がった。

8歳の頃には仲間内で一番強くなっていた。

教育は受けて無いし勤め人は出来ない。

資本も無く、大きな商売も出来ない。

個性が強いから人に頭を下げるのは好かん。

好きな将棋なら勉強次第で飯ぐらい食えるだろうと思った。

父の遺産があったから当座は生活には困らず

好きな将棋を指して気ままな日々を送っていた。

毎日九条の将棋クラブに通った。

1927年21歳で神田門で初段。

二カ月で二段に。

神田門も困窮していたが、将棋狂が集まっており、

師匠が弟子を掴まえ、真剣を挑んでいた。

朝風呂→麻雀かビリヤード→中将棋→師匠と1局15銭の真剣

の流れだった。

香落ちが得意な師匠が負けると機嫌が悪く、

夫人の横顔をぴしゃりと叩くこともあった。

1938年、千日前に借金して将棋クラブを出した。

繁盛して3年で借金は返せた。

そして満州へ豪華な2か月の旅に出た。

1943年、興亜石炭の徴用工に。

戦災で住居兼将棋クラブは焼けた。

現在なら億に近い金額になる超一等地の千日前だったが、

人に頼まれあっさり土地の権利を放棄した。

戦後は阿部野にクラブを開いた。

木見さんが火曜に来て金曜まで泊まって行った。

中将棋と花札をやった。

子宝に恵まれず夫婦二人だったので身軽で

この地も他人に譲って引っ越した。

1962年56歳で七段昇段とB1昇級。

1966年9月、関西本部の増築問題を仲間と話し合い、

軽く飲んで帰って夜に脳溢血で倒れた。

5時間ほど意識不明。

気付くと手足が動かなかった。

幸い症状は軽く、ほどなく身体が動くようになった。

3カ月して死んでも将棋が指したいと試みたが

盤の前に座っておられず指せる状態では無く、

休場した。

小型盤を作らせトレーニングして1年余りで復帰した。

対局前3日の安静を守るが夕方になると疲れで駄目にしてしまう。

得意の矢倉が指せなくなり、下手な振り飛車で不本意な成績に

甘んじている。

しかし1日3時間は研究し65歳までの現役を夢見ている。

アマ指導も若い者には気付かぬ細かい点をじっくり

教えてあげたい。

62歳の現役最長老。

 

23)板谷四郎八段

1933年入隊。

1936年、豊橋の将棋大会で名古屋代表として小泉兼吉八段に

角落ちを教えてもらい、棋界入りを勧められるが兵役の運命の為断念。

1937年に応召。

二年半中国で戦った。

右側背貫通銃創を受けた。

1939年に厳しい条件の二段の試験を受け既に妻子がある26歳で合格。

1941年に四段。

1941年に二度目の応召。

1943年に五段。

1944年に三度目の応召。

鹿児島で終戦を迎えた。

軍隊生活は8年6カ月。

1954年全八段戦優勝の頃がピーク。

1959年引退。

 

24)山田道美八段

1933年名古屋市生まれ。

名門熱田中学2年時に伯父と将棋を指して

矢倉を知る。

3年で学友と将棋好きを訪ねて相掛かりを知り

将棋熱にとりつかれる。

三菱重工の技師の父は三男坊には進学を望み将棋に凝ることに

反対した。

しかし父から会費に使う小遣いをもらい、二里(7.8㎞)あまり歩いて

板谷教室にこっそり通い、夜道も歩いて帰っていた。

四郎八段に二枚落ちを教わったりしていた。

母が泣いて猛反対したが名古屋に住む金子八段に

「学校に通いながら将棋の勉強が出来る」と

両親を説得してもらった。

実際には内弟子生活半年は通学どころでは無かったので

両親を嵌め手にかけたようなものと楽しそうに話す。

山田さんは金子さんの失敗した「将棋教室」誌の

編集も手伝った。

奨励会時代は本が買えず暇があれば図書館通いし、

雑誌を小脇に抱えていた。

1950年初段。

1年で四段まで昇段。

1959年25歳で結婚。

急に明るい青年になった。

将棋会館近くに部屋を借り、奨励会員を集めて「山田教室」を

開き、一緒に勉強している。

形式的には会費はとってるがほぼ山田さんの負担。

1967年初タイトル奪取は棋聖。

子供の頃から将棋をやってる大山さんには番数も

経験も及ばないので稽古将棋で差を縮めようとしている。

山登り、クラシック音楽が好き。

 

25)大友昇八段

1956年五段。