毎月第1&第3木曜日発売らしい。

将棋特集が全16ページ掲載されてる。

「坂本龍馬」さんとか知らないし勉強になった。

「源 坂本 直柔(なおなり) 龍馬」がフルネームですと。

西郷隆盛さんも全然知らなくて勉強になった。

 

 

特集の表紙写真は石灯篭もある日本庭園に面した

『縁側』の「縁台将棋」写真が使われている。

赤いホオズキの実が鉢植えになっているし、撮影時期も

リアルに夏なのだろう。

多分『くれ縁』と呼ぶのだと思う。

広く感じるので『広縁』だ。

屋根の下にあり、濡れないように想像されるので

『濡れ縁』では無く『くれ縁(広縁)』だろう。

「和室と屋外の庭との間にある空間のことで、

建物のヘリ部分から張り出して造られた板敷きの通路のこと」

という定義っぽい。

材質不明の1寸以下の折畳み将棋盤が置かれている。

星は有る。

将棋駒は天童の楷書体の書き駒だ。

駒尻に号は入っていない。

使い込まれておらず未使用に近く見える。

漆が反射して艶があり綺麗だ。

面取りは無しに見える。

駒台は無い。

各対局者の盤側に置かれている物:

1)茶色い液体のお茶が入った透明のグラス(コースター付)

2)茣蓙敷座布団

3)団扇

緑が多い庭園で、季節は夏なので間違い無く、

やぶ蚊が多く、びりたんなら将棋どころじゃ無い気はするwww

 

 

【盤面下側】

1)49の銀は38銀→49銀とわざわざ引いたのか?

2)玉の囲いが78の銀と変則的

3)謎の6筋位取り

4)よく分からん右四間飛車

【盤面上側】

1)意味不明の袖飛車

2)何故か角頭の歩を突いてる

※不思議な局面だ。

縁台将棋としては強い方だろう。

盤面下側が優勢。

 

(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)

 

「江戸時代になって庶民に広まった将棋。

昭和中頃までは夕涼みも兼ねて庭先、公園で

将棋を指す光景が見られた」

昭和は1989年(昭和64年)までなので

昭和32年(1957年)が昭和の中頃か??

終戦10年頃くらいまでか??

 

【座談会】

1)棋士米長邦雄さん65歳

2)作家逢坂剛(おうさかごう)さん64歳

3)フリーアナウンサー島田良夫さん70歳(司会)

連盟の宮松影水さんの虎斑の将棋駒と盤のアップ部分図写真が掲載されてる。

影水さんは源兵衛清安を作って無いので書体は「清安」だ。

盤の木目が特徴的に見える。

柾目狙いだろうが端の9筋辺りは斜めに木目が流れている。

 

 

米長さん「郷里の山梨県増穂町は昔から将棋が盛んだった。

銭湯の2階、寺の本堂を溜まり場にして町の男達が指していた。

幼い頃からそういう場所に通い、見よう見真似で覚えた。

地元の奨励会世話役のアマ五段くらいの

指導者に出会えた幸運が現在に繋がっている。

初心の頃は誰でも酷い負け方をするものだが、

負けたけれど筋が良いとか、

攻め方の着眼点が良いとか、

近いうちにオジサンたちを追い抜くとか、

お前は天才だとかとにかく彼は褒め指導上手だった。

現代でも小学生の将棋大会で負けて自信を無くした子には

プロが丁寧に指導してこれからも将棋を

続けたいと思ってもらうことが大切。

私は13歳の時に序列30位ぐらいの佐瀬勇次八段に入門し、

手ほどきをしてやると言われたので

師匠に教わると師匠レベルで終わるので

私の将棋に一切口出ししないでくれと断った。

拳骨が飛んできたが、考えてみたら尤もだと

言ってくれ良い師匠だった」

 

逢坂さん「東京文京区生まれ。

父親は挿絵画家。

親爺に挿絵用の原稿を持って来る編集者が

絵が完成するのを待っている間に

私より8つ年上の兄を相手によく将棋を指していた。

兄は相当強くて小学生頃にこの兄に私は

教えてもらったように思う。

詰みを会得出来たのは中学生頃と思う。

広告代理店会社員時代は昼休みに早飯をして3人くらいの

仲間と交代で指していた。

時間も限りがあり、盤も1面しか無く、

早指しの短期決戦だった」

 

庶民に将棋が普及したのが江戸時代とのことで

野次馬がおっかぶさって将棋盤面の見えない縁台将棋の

笑いを描いた式亭三馬さんが紹介されてる。

 

 

 

鳥居清満さんの「碁将棋双六遊び」の

写真も掲載されている。

 

 

 

将棋盤は縦8マス×横9マスだwww

ということで将棋に詳しく無いということは明らかなので

リアルな当時の風俗を描けてるかは微妙だが

手つきは親指と人差し指の2本っぽいな。

当時は現代とは「正座」が違うので女性は
立膝座りだ。
こんなに女性もリアルに将棋を指していたのかなあ?
駒箱は手掛け部分の削りのある被せ蓋タイプだ。
現代のプラ将棋駒の駒箱みたいに見える。
持ち駒は手に握り締めず、床に置いている。

 

 

こんな感じの局面かなあ?

謎の端の駒交換が行われてそうだけど。

 

碁盤は19路盤では無く、17路盤だから

これもテケトウに描いただけだろうなあ。

碁笥は丸型だ。

碁石がえらいちっこいな。

「アゲハマ」は碁笥蓋に入れずに床に置いてるな。

 

 

双六盤で遊んでる組みは右の女性が右手で
サイコロを振る為の「振り筒」を持ってる。

 

駒の動かし方の説明と将棋用語23の紹介が各1ぺーじ。

 

【将棋を愛した文士】

【菊池寛さん】

写真1):第一回文壇将棋大会IN東京小石川「もみじ」(昭和28年)

脚付き6寸盤と1本足駒台。

盤側には灰皿があり、対局者も煙草持ってる。

ネクタイの人だらけだ。

9局は対局してる。

感想戦っぽいのが1局。

「オール読物」の紙が貼られてるし、

掲載されたのか?

他に「AB級対局場」の貼り紙も見える。

写真2):対局中に笑う菊池寛さんのアップ

写真3):長男英樹君と脚付き5寸くらい盤で将棋を指してるところ。

駒台は無い。

 

1日に数回将棋盤に向かい、

相手が居ない時は棋譜並べをして

2面の盤を使い研究もしていたと。

文藝春秋創業者なので社長室中央に将棋盤を置き、

社員が自由に将棋が指せるようにしたと。

樋口一葉さんと親交のあった先輩の馬場弧蝶さんを

『「将棋の話」という著書もあるなど将棋学の権威だが

実力は余りに貧弱で定跡の2、3手は知ってるかもしれないが

陣容が豆腐並みに脆い』と辛らつに批評していたりするようだ。

 

 

【井伏鱒二さん】

写真1):松本清張さん(攻める振り飛車負け)VS井伏鱒二さん(矢倉囲い勝ち)

昭和42年。

六寸脚付き盤と一本足駒台。

駒箱は高級そう。

清張さんは煙草を口元に運んでいる。

井伏さんも煙草を持ってる。

写真2):第一回文壇将棋大会IN東京小石川(昭和28年)で

序盤の矢倉模様の盤面の感想戦を観戦する井伏さん。

「B級対局者成績表」の貼り紙がある。

富永鎌太郎さん(富かは写真が見切れており不明)

梅崎春生さん(小説家)

高杉彬光さん(推理小説家??)

中山義秀(ぎしゅう)さん(小説家)

井伏鱒二さん

榊山潤さん(歴史小説家)

田岡典夫さん(小説家)

大岡昇平さん(小説家)

神保(じんぼ)朋世さん(挿絵画家)

犬宅壯一さん(字も読めず情報無く不明)

富田常雄さん(小説家)

橋本英吉さん(小説家)

尾崎一雄さん(小説家)

和田義三(よしぞう)さん(漫画家)

小川哲男さん(情報無く不明)

角田喜久雄さん(伝奇、探偵小説家)

石黒敬七さん(柔道家、随筆家、古写真収集家)

高木榮山さん(情報無く不明)

 

井伏鱒二さん1勝2敗。

大岡昇平さん2勝1敗。

尾崎一雄さん1勝2敗。

角田喜久雄さん2勝&3局目は対局中。

唯一の3戦全敗は橋本英吉さん。

田岡典夫さんも2連敗で3局目は対局中なので

3戦全敗の可能性あり。

高杉彬光さんと角田喜久雄さんが

3局目の結果次第で3戦全勝の可能性がある。

 

井伏鱒二さんは小川さんに勝ち、高杉彬光さん、

富永鎌太郎さんに連敗してる模様で強そうじゃ無いな。

 

写真3):井伏鱒二邸の庭の縁台で太宰治さんと将棋を指す。

昭和15年。

脚付き1寸盤くらい。

井伏さんは胡坐。

縁台の横幅が狭く駒台は盤側に置くスペースも無さげ。

 

写真4):クレジットが無いが第一回文壇将棋大会IN東京小石川(昭和28年)

での井伏さん対局写真か?

 

 

 

こんな感じの局面だろうか?

どちらも強そうには見えないな。

普通に考えて写真奥の井伏さん側の駒台代わりの駒箱の上に乗っている

持ち駒は角だろう。

お相手さんの持ち駒は不明だが角1&歩2かなあ?

井伏さんは桂馬を跳ねても無いのに97に歩を垂らしており、

謎過ぎる。

 

昭和16年、井伏さんは43歳で南方に向かう輸送船の中でも

将棋を指し、魚雷でやられるかもしれない恐怖を忘れていた模様。

初段の免状はもらっていたが実力は10級程度と思っており、

昭和30年に大山名人が筋向いに引っ越して来て3級ほど

体感として上達したらしい。

ということは第一回文壇将棋大会昭和28年はその上達前だ。

 

【志賀直哉さん】

70歳頃は熱海の山荘で暮らしており、新聞雑誌の仕事の依頼は

老齢を理由に全部断っていた。

将棋関連の企画のみ引き受け何処にでも出かけていたらしい。

随筆「梅原龍三郎と私の対局」にはこのように書かれていると。

将棋を覚えて50年、短い期間の例外を除いては

いつも身近に将棋を置いて指していた。

梅原さんと私とでは梅原さんの方が恐らく十倍

将棋好きだ。

しかし好きな割に上手くならないのは

好きは好きでも上に『横』の付く

好きということかも知れぬ、と。

「オール読物」での対局企画は梅原さんの勝ちだったらしい。

梅原さんがプロにその対局棋譜を見せると黙殺されたので

梅原さんは志賀さん宛ての手紙で「どーも少し風流過ぎる将棋らしい」

と書いていたそうな。

 

 

 

山の話をしている。

 

 

写真1):将棋盤に向かう志賀さん。

詳細不明。

 

 

玉の駒尻に銘が見えるので高級駒っぽい。

写真向かって奥の志賀さんは相手玉付近に端歩を垂らしてるっぽいな。

志賀さんは右玉だろうか。

 

写真2):近所に住む広津和郎さんの書斎での対局。

昭和29年頃。

 

 

卓上1寸盤は良いとして、畳の上の「銀将」の書体と

将棋駒のフォルムから推理するに天童書き駒の気がする。

局面は玉が上部脱出を図っている終盤に見える。

志賀さんは煙草を加え、頭に右手を当て片膝を立てて座り、

思案中。

マフラーをしてるし冬だろう。

 

【直木三十五さん】

本名は「植木宗一」さん。

『植』の文字を分割し「直木」とし、実際には年齢は

40歳だったが三十五歳の意味で「三十五」としたらしい。

昭和3年に「週刊朝日」に「文壇棋術行脚」という

文壇の人間に直木さんが将棋の対局を挑み、棋力診断の文章を書くと

いう企画をやったらしい。

佐々木茂索さん、

久米正雄さんは示し合わせて逃げたとのこと。

山本有三さんは長考癖があり、余ほど素質が悪いのですと。

江戸川乱歩さんは将棋は探偵術の推理方法では駄目と書かれ、

菊池寛さんは盤の汚さは話のほか、と酷評されたと。

直木三十五さんは囲碁も強かったらしい。

直木三十五さんの「文壇棋術行脚」が掲載されてると思われる

「直木三十五随筆集」(1934年)は市内図書館からの取り寄せ

リクエストしてみた。

市内だから届くのは早いはず。

 

【幸田露伴さん】

略。