触っただけで、ボロボロと表紙が崩壊しております。

昭和8年って西暦は何年だ??

1933年か。

 

 

ぎりぎり繋がっていたのが破れちゃった。

 

 

価格は、これ150円じゃなくて、少数点があって、

 

 

1.50円だ。

1円50銭ということ??

送料は0.10円だから、

えーっと、10銭なのかな?
 
 
ほら。
送料0.04円だと4銭なのかな??

 

●十三世名人關根金次郎翁の話。

私の若い時分には今日の様に新聞將棋なぞはなかつた。

將棋指しを職業として東京に落着いて

立派に門戸を張ッてゐることは容易な

ことではなく、師匠の十一世名人伊藤宗印と

小野五平氏くらゐのものだッた。

それに比べると今日の若い棋士なぞは

全く勿體ない位幸福で、坐ッてゐても

將棋を指してゐれば兎も角生活の方法は立つが、

私達の時分はいくら東京にいたくてもなかなか

居られず、棋士の組合なぞもなく、勉强するにしても

旅から旅を歩いて知名な棋士を尋ねていつては指して貰ふより外はなかつたのだ。

隨ッて私達は旅で生活し旅で修行したものだ。

人間もその頃の方が變(変)ッてゐた様で世の中が呑氣だつたせゐだらうが

面白い人物がかなり多かツた様に思はれる。

●旅先のいつどういう席で誰と指したか&

棋譜を帳面に記していたが熊本の祭りの雑踏の中、

すれ違いざまにぶつかって来た小男に紙入れをすられて、

中に入れていた大事な棋譜の綴りを失った。

●盗賊は盗られるものが無いから怖く無いが、

夜道で怖いのは野犬である。

野犬に吠えられるのは毎度なので気にせず旅路を急ぐが

大分別府では30匹ぐらいに牙を剥き迫られ食い殺されるかと思った。

地元の漁夫さんが口笛を吹き、

魚を投げ犬を引き付けてくれて助かった。

●金は無くても、仁義という程では無いが

作法があって手拭い一本あれば全国が渡れた。

目星をつけたその土地の将棋好きの家を訪ねる。

東京のかくかくしかじか将棋指しを名乗り、ご当地は初めてで、

何分宜しくと手拭いを、ほんの土産の印までと差し出す。

泊めて世話してくれたり、路銀と一緒に

手拭いに返してくれるのが習慣だった。

しかしある時、大切な手拭いを紛失し、

やむを得ず自分の締めていたふんどしを手拭いに

見立てて紙に包んで差し出した時のこと。

応対してくれた女将さんが気の毒そうに

主人は今留守と路銀もくれずに、包みを

しまい込まれて、それはふんどしですとも

告白出来ずに閉口した。

●山形酒田市に竹内丑松八段を訪ねて新潟で蒸気船に乗って暴風に遭った話。

船頭たちはもう駄目と念仏を唱え始め、私は浮き袋を体に結わえつけたほどだったが

船は「とど島」に吹き付けられ助かった。

しかし、一週間待って島を離れたらもっとひどい暴風に巻き込まれた。

今度は船頭が念仏すら唱えないほどだった。

私は覚悟して将棋の駒磨きをしていたら

また別の「あは島」に吹き付けられ助かった。

船頭たちはかえって助かったことを不思議がっていた。

●将棋の旅の修行は指すより歩いている時間の方が長い。

しかし苦労を経験し度胸がつき、ちょっとや

そっとでは驚かなくなる。

日本中を一巡りすると角1枚は違う。

●高段者は頭脳の中に盤を持っているから

口と口で棋譜を言い合う盲目將棋(口將棋)ができる。

しかし普通に盤に向かって指すようには行かず、

誰でも香車一本は弱くなる。

●宗印先生はかなりのご年配で人品の良い極く上品な方だった。

いつも好んで十徳を着ておられた。

奥さんも優しい美しい方だった。

子供の私が突然訪ねて行くと驚かれたようだったが

訳を聞くとニコニコしてすぐ座敷に上げてくれた。

天下の名人相手でも四枚落ちでは負けないと

天狗になっていたが、最初の二番は全く問題にならず、

最後の一番も私の負け将棋なのに子供の私に

花を持たせてくれただけだった。

「お前が將棋指しになる氣なら本氣でやれ、

手筋がいゝから勉强したら立派な棋士になれるだらう」と

力をつけて呉れた。

 

(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)

 

●J・O・A・K…こちらは東京中央放送放局であります。

只今から山本七段と溝呂木七段の對局、これに就いての

關根名人の講評を放送いたします。

どうぞそのまゝに…ヂヂ…。

●駒臺(台)…盤側に置いて取つた駒を載せて置く臺(台)。

碁の方の碁笥に匹敵するもんだがあれは決して古くから

あつたもんぢやない。

徳川末期にもあつたが、あれを一般に廣(ひろ)く使用する

様になつたのは、明治に這入つてからで、それも最近だ。

だから形に就いて八釜(やかま)しく規定なんてない。

そんなら昔は例へば公式の席上であるお城將棋の場合なぞ

駒臺の代りに何を使つたものだらう?

掌に汗をかき乍(なが)ら『お手は??』なんてやつたもんだらうか、

と言ふのに、そんな無作法な事はしない。

昔の對局してゐる繪圖(絵図)を見ても判るが、

多くの場合、持駒は各々懐紙をひろげ、

その上に行儀よく列らべて置いたものだ。

また扇面を利用したこともあつた様だ。

考え方によつては、懐紙にしろ扇面にしろ、

現在の駒臺よりずつと趣きが深い様にも思はれる。

だが、敦方にしてもこの駒臺は絕對必要なものだ。

一々敵に持駒を訊くのも不見式だが、それより

間違ひのない將棋を指すために、是非必要なのだ。

●駒臺については色々珍談がある。

ある将棋の会でのこと。

食事時間になっても勝負に熱中している両氏は

お膳を盤側に置いたまま手を休ませようとはしない。

そのうち、一局済んだので食事をとり、次の対局を

始めようと駒を並べると『角』が一駒足りない。

盤をよけ辺りを探しても不思議とどうしても見つからない。

『井上さん、貴方あつくなつて喰べて仕舞つたんぢやないか』

なんて騒いでいると臺(台)所から女中がこんな駒がありましたと

持って来た。

どうやら対局に熱中するあまり、駒臺に置く積もりで

傍らにあったお膳のお椀の中に持ち駒を入れたらしい。

●大崎熊雄八段は日露戰役で名譽の負傷をして右腕が

不自由になり、それ以降は専ら左手で將棋を指している。

それで駒臺の置き場所も常人とは異なり両者とも

盤の左側に置くこととなった。

そこで自分の駒臺に置くつもりで相手の駒臺に持ち駒を置き、

終盤になってあるはずの無い持ち駒を使うという事件も発生したりした。

●詰將棋で迂闊千萬にも肝腎の玉將を書き落とすと言ふ

一世一代の大間違ひをやらかして、冷汗を流した思ひ出がある。

私より讀者の方がよけいに面喰らつたものらしく、

中に皮肉なのは『玉の在り場を探すのか?』なんて

痛烈なところを、お見舞ひ申されたことがある。

●將棋の駒に就いて、よく「王將(わうしやう)がほんとなんですか

玉將(ぎよくしやう)がほんとうなんですか?と訊かれる。

これについては幸田露伴先生もいろヽ考察してゐられるが、

古文獻を一つ紹介しよう…

●將棋の駒の書體(体)も調べていくと、あれでなかなか難しいんだ。

舊(古)い駒には『水無瀬』、『金龍』、『眞龍』、『安淸』なぞと

言ふのがある…

●對局中は誰れしも熱中するので普斷は隱れてゐる七癖が

自然飛び出してくる。

世界の哲學は煙草の煙りの中から生れ出たと言つても

いゝほど棋士諸君は盛んに喫煙する。

これからみても思案と喫煙は離れられない様だ。

大坂の神田辰之助七段ほど煙草を虐待する人を

まだ見たことがない。

常用はエヤーシップ。

それを一手指すごとに、火鉢の中に投り込むのだ。

一吸ひしか吸はない煙草でも、ぱつと火鉢に投げ

込んで、そして一手指す。

眞に一手一本と言つてもいゝ程で、

だから一局の將棋を指し終へる迄に優に十四五個は

費して仕舞ふだらう。

あれぢや吸ふんぢやなくつて、棄てるために

火をつける様なもんだ。

煙草が可哀想だ。

花田八段は金子八段の対局では熱中するあまり、

二人で一本の煙草を吸い合い、終ひには

花田君が火の付いている方を、遂に口に咥へて

仕舞つたことがあつた。

●以前は棋士諸君も、八時と言ふと九時、

九時と言ふと九時半、と遲刻したものだが

この頃は聯盟の規約が巖重になつたので

この弊が改められた。

それは遲刻した時間だけ當人の持時間から

引くと言ふことになつた。

大切な持時間の短縮、これが何より辛いので

自然時間巖守となる。

●盤面に記されてゐる四ツの星の理由。

あれは兩陣の左右にある譯ですが、

各々南極北辰を象つたものと言はれてゐるのです。

『駒の向ふこと衆星のごとし』とうまい形容をしてゐます。

●駒の四十個ある理由。

將棋は全て宇宙を象徴してゐるものなので

地上の生物の三十六禽に四神(星象、靑龍、朱雀、玄武)

を加へて四十也と言つてゐるのです。

盤面の桝目の八十一格ある理由は…

●駒の頭がどうして三角か?の説明で、これは

慥(たしか)に奇想天外、傑作中の傑作と思はれるので

名答を御らん下さい。

『駒と稱(しょう)する事、軍中は馬を以て重しとす、

馬は陽獸にて火に屬す、字彙云、馬稟火氣生、牛は

南方なり、南は火にして形三角なれば、

頭を三角に削るなり』。

つまり駒は馬で、馬は牛で、牛は形が三角だと三段論法で

證(しょう)明してゐる。

●ヂャーナリズムの尖端をゆく邦新聞紙上に現れた將棋欄の歴史。

最初に設けられたのは黑岩涙香氏時代の『萬朝報』である。

明治三十五六年の頃と思ふ。

『萬朝報』に棋譜を掲載し出してから暫らくして『國民新聞』が

掲載するやうになつた。

續いて『朝日』、『報知』、『時事』、『東日』と相前後して

將棋欄を設けるやうになつたのである。

地方新聞としては『神戸新聞』がかなり早かつたやうに思ふ。

併しこの時代の將棋欄は將棋欄と言つても名のみで

非常に貧弱なものであつた。

一局の將棋を精々五六囘に載り、しかも休み休み出すと言つた

頗る酷遇された扱ひ方であつた。

素より今日見る様な講評とか感想とか觀戰記とかいつたものはない。

單に「七六歩、三四歩」の棋譜ばかり、片隅に投げ出されたやうな

鹽(塩)梅であつた。

隨(従)つてこの時代は、對局と言つても近頃の各紙に見るやうな

特別の催しといふやうなものはなく、事實(実)は棋士の方から

殆んど無報酬で新聞社へ掲載方を依頼してくると言つた有様だから

熱のない興味の薄いものであつた。

これが新聞將棋の第一期の状勢である。

次の時代、第二期になると棋士による棋譜、感想、講評となるが…

棋譜と簡単な講評では毎日の棋譜が単調で味気ないので、棋士の苦心を読者へ訴え、

紙面の単調を破るため、棋士ではなく新聞社の編集部の手が動いて

将棋記事をひとつの「ニュウス」として扱っては如何ということになり

第三期の観戦記者が誕生した。

●将棋の新聞記事は大衆によって支持されている。

文学青年が菊池寛の作物それ自体に興味をもつ以上に、

菊池寛の生活により以上の興味を持ち、これを探索し

吹聴して得々としているように、将棋ファンも同じく

土居七段、木村八段の身辺雑事に異常な興味を持っている。

ある時木村八段は対局後雪の如くフケが積もると私が書いたら

早速数人の読者からフケ取りの妙薬と称するものが送って

きたほどだ。

ひとつのゴシップ的記事が妙手奇手の解説より

どれほど読者の興味を引くことか!

ゴシップ的効能により、無味乾燥な符号の羅列が

どれほど潤いをもつことか!

読者標準は初段に二枚落ちの棋力と定めた。

私は将棋の大衆文藝を書くつもりで筆を採ることが

第一であると思う。

●棋譜の統一問題。

多くの新聞では盤面に向かって左下を「九ノ九」としているが

ほとんど全部の講義録では同じ個所を「一ノ一」としていて

初学の読者は迷惑至極である。

今日まで解決されずに来たのは棋士諸君の不親切が

問題である。

●棋譜の著作権の問題。

これまで問題にならなかったが自然発育して

明るみに出て来るだろう。

 

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●木村義雄八段の子供時代の話。

父が井上義雄八段のところに連れて行ってくれた。

井上先生は不在で三段になり立ての

宮松闗三郎(現七段)氏が六枚落ちを指してくれた。

2番とも木村さんが連勝し、父が

「金銀ぢや將棋にならねえ。

せめて二枚でやつて呉れなくちや」と

べらんめえ口調で云つた。

その時の宮松氏の返事が面白く未だに憶えている。

「闗東闗西歩いても、この子さん位の年で私に

二枚で指せる者はない。」

2番指して1勝1敗で流石専門棋士と思った。

13歳だった。

翌日町内でめんこ遊びをしていたら宮松氏がやって来た。

「家はどこだ?」と聞かれたので案内すると

「昨夜井上先生がお帰りになって話をしたら

少し将棋の勉強をさせたらどうだというのですが」と

父に話してくれた。

父は私を将棋指しにすることは好まなかったが

懇切に言われたので稽古にだけは行くことになった。

井上先生は指してはくれず、宮松氏がその中、

独立したので引き続いてそこへ行くことになった。

 

1886年1月14日生まれの宮松関三郎さんが登場してる。
1928年に七段。
1946年第1期順位戦B級に参加し1勝12敗1持将棋で降級し
その直後の1947年9月26日に心臓マヒで急逝。

長男の宮松影水(本名・幹太郎1928年〜1972年)さんは関三郎さんから

駒作りの手ほどきを受けたらしい。

 

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そう言えば、夏目漱石さんの「坊ちゃん」にも将棋が出てきてたなー。

『ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。

あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へたたきつけてやった。

眉間が割れて少々血が出た。

兄がおやじに言付けた。

おやじがおれを勘当すると言い出した。』

 

 

 

へー。

多分、前時代の平型駒袋だ。