1)幕末から明治、大正に至る時代

2)創立から太平洋戦争終結まで

3)終戦の混乱から発展を遂げるまで

4)待望の市ヶ谷時代を迎え世界に羽ばたくまで

日本棋院の活動に重点を置いた囲碁史が

つづられています。

(白熱の勝負史、棋士の人間ドラマには

触れられていない)

 

●囲碁は確か百田さんの怪しい囲碁小説にもありましたが

1)本因坊家

2)井上家

3)安井家

4)林家

と4つの家元があったんですかね?

 

●総裁

囲碁は総裁という役職があるのですね。

初代:牧野伸顕(大正13~昭和21)

二代:津島寿一(昭和28~昭和42)

三代:足立正(昭和42~昭和48)

四代:佐藤喜一郎(昭和48~昭和49)

五代:田実渉(昭和49~昭和57)

六代:稲山嘉寛(昭和57~昭和62)

七代:朝田静夫(平成5~     )

名誉総裁:大倉喜七郎(昭和28~昭和38)

※総裁の他に理事長というポストもあるらしい。

 

●戦後、財閥の解体で日本棋院の援助も

ままならなくなり大倉喜七郎さんは

鳩山一郎さんに棋院の総裁を引き受けて

くれと頼みに行った。

鳩山さんはバロン大倉さんの尊厳を

傷つけたくなくて答えた。

「君が生涯やったことは、川奈のゴルフ場と

日本棋院を作ったことだけじゃないか。

その総裁の地位を僕が取り上げて

しまうのが嫌だ」

※バロン=

封建領主、貴族の称号あるいは爵位の一種??

パトロンの誤植かと最初は思いました。

 

●日本棋院中央会館(八重洲囲碁センター)で

行われたお祝いの会でマイクの前に立たされた

晩年の大倉喜七郎さんの挨拶。

ひとことふたこと喋った後に、

「気の利いたユーレイは引っ込み時を

よく心得ています」とやって、マッハで

姿をくらましてしまった。

聴衆は手を叩く暇も無かった。

●戦後、GHQの建築統制令によって

会館が建てられなかったため、

旧日本棋院の高輪の建物は焼け残った水産会社の寮を

買収して代えたものだった。

年月を経て老朽化し、ボロ家となり、

10歳で来日した林海峰少年は

それを見てなんと汚い家だろうと思った。

日本棋院が市ヶ谷に移って、

将棋連盟が会館設立の為に、この建物を

借りていた時期があった。

二階の大広間で対局があり、

広間の床がドサっと抜け落ち、

慌てて対局は中止となった。

 

 

 

●想像ですけど、1970年代の幽玄の間では無いでしょうか?

●床の間の板は、当たり傷が生じているようには見えます。

●畳はイグサでしょう。

タバコの焼け焦げは見えません。

イグサは日焼けは進んでいますが、

特に傷んでは無さそうにみえます。

畳の縁の生地は高級そうに見えません。

●いつ頃の写真かは不明ですが

この時代はカーペットは敷かれておらず、

座椅子ではなく、座布団だった模様です。

 

 

 

車のフォルムから判断するに1970年代の写真かと。

 

 

何かこんな角ばったクラッシックカーに見えるから。

 

 

 

奥は赤いエプロンを着たおねーさんが

給仕してくれるお食事スペースなのかなー?

赤いエプロンを着た手合い係じゃないですよね??

碁笥はプラスチックだ。

碁盤は材質はともかく、一枚板っぽい。