1917(大正6)年宮崎県日向市生まれ。

1938(昭和13)年戦争で入隊&中国へ。

1939(昭和14)年父宗次郎さん没。

1940(昭和15)年兵役免除。

1942(昭和17)年母スヱさん没&恵美子さんと結婚。

1944(昭和19)年長男宏高さん誕生。

のちに芳文さん、恵子さん、玲子さん誕生。

1966(昭和41)年旭ダイヤモンドさんとの提携で

6年に渡り研究を続けてきたダイヤモンドドリルによる

碁石のくり抜き工法に成功。

1976(昭和51)年株式会社黒木碁石店を法人化。

代表取締役社長に就任。

1978(昭和53)年脳溢血に倒れ左半身麻痺に。

1981(昭和56)年「はまぐり碁石の里」を設立&

著書の執筆を開始。

1982(昭和57)年65歳にて没。

1983(昭和58)年遺族の手により非売品の本書を刊行。

 

<目次>
グラビア おもいで
まえがき
一、蛤採取の移り変わりと碁石製造方法の進歩
1)手ズリとジョレン堀
2)ケタ網、床堀、モグリ、その他
3)サンドポンプ船及び機械ズリ
4)クリヌキとメキシコ貝
二、職人黒木一士の一生
1)幼年時代
2)学生時代
3)実社会に出て
4)召集
5)召集解除
6)近年のこと
7)脳いっ血について
後記-黒木恵子(長女)
黒木一士略歴

 

 

 

全69ページ。

非売品ですので裏表紙にも価格は記されておりません。

宮崎県の地方出版社、(有)鉱脈社様より刊行されています。
貴重図書の為、貸出不可となっているようですが
宮崎県の日向市立図書館様に蔵書があるようですので
意地でも原文に触れたいとお考えの研究熱心な方は
是非、現地まで足をお運び下さい。

 

 

 

日向市立図書館様の入力情報が誤りで無ければ

黒木一士(くろぎ かずし)様とお読みするようです。

あれー?でも、お父様のお名前は

黒木宗次郎(くろき そうじろう)様と「KUROKI」表記

になっているので謎です。

ああー。

黒木碁石店様のHPのアドレスがKUROKI表記

ですので、やっぱり「くろき」が正しいのかも??

 

それはともかく一士様がお亡くなりになってからの発刊ですので

発行者は奥様の恵美子様になっています。

長女恵子さんのあとがきからご紹介させて頂きます。

(一部略)↓

 

1981(昭和56)年から父は自分の歩いてきた道を

子や孫に残したいと不自由な体で少しずつ書き始めました。

脳溢血で左半身は麻痺、視力もひどく衰えており、

特製のレンズをはめ込んだ眼鏡を原稿用紙や不用の

紙の裏にこすりつけるように書き進めていた姿を

今、痛々しく思い出します。

病気のせいで字を思い出せなかったり、上手く

表現できないことも歯がゆく、相当苦しみましたが

憑かれたように書き続けました。

存命中に本にしてあげられなかったことが悔やまれますが

せめて父の一周忌にこの本を供えます。

苦しんで書き残した1文字1文字です。

拙い文ではありますが、誤字や旧仮名遣いを

訂正した以外は、そのまま残しました。

父の思い出を辿り、父の残したものを読みますと

ただただ碁石造りの生涯であったと改めて強く甦ります。

全く需要の無い時ですら、碁石を作り続け、

貧困や苦難や災難に耐えながら工夫し、

研究し、苦労に苦労を重ね働きに働いて

日向の碁石をようやくここまでにしてきたのでした。

二人の息子も跡を継ぎ、これから少し楽が出来ると

いう時に病に倒れたのでした。

父の生涯はただ一筋のシンプルな道ではありますが

その見事に実直な道は父の死後、白く輝く一筋の道として

私の心に美しく刻み込まれました。

父は母と共に私たちが時には辛くなるくらい

仕事に打ち込んで参りました。

私達子供が大人になりかけの頃は「もっと人生を

楽しんで欲しい」と注文をつけ反抗したこともありましたが

父の気質ではそんな生き方しかできなかったのでした。

誠意をもって仕事をし、日々努力を重ねることが

父の生き甲斐でした。

それは病に倒れてからも同じでした。

自分に厳しくスケジュールを立て、早朝から

夕方まで訓練を続け、苦しくても、治らないと言われても

希望を捨てず、もう一度で良い、何とか歩けるようになりたい、

昔のように歩けるだけで良い、それだけを願って

一日も欠かさず訓練に励んできたのでした。

心に強く残っているのは、黙ったものへの心配りの事です。

昔、よく酔って帰ってからも飼い犬の餌の心配をしたものです。

病に倒れた直後も言葉がままならないので

紙にたどたどしく書いた最初の事はさつきの水やりのことでした。

「言いたい事が言えないものには、余計心配りをしてやらなければ

かわいそうだ」とよく言っていたものです。

無口な者が無言のものたちを憐れむ気持ちが

今頃、よく分かるように思えます。

好きな酒が入ると陽気になりましたが、普段は無口で

世辞も言えない一徹で堅物の父でしたが、

その誠実さ故か多くの人に信頼され、慕われ、

幸福な生涯であったと思います。

皆様のお陰で父は極楽への道を必ず辿れたことと思います。

ありがとうございました。

どうぞ今後も末永くこの黒木碁石店をよろしくお願い致します。

 

 

 

巻頭には8項、全19枚のモノクロのお写真が掲載されています。

まりもんちゃんがジャンプしている上の写真はそのうちの2頁です。

「酔うと決まってこの花売娘」のお写真が一番好きです。

 

 

 

 

右上の「工場全景」は「蛤碁石製造元 黒木一士碁石店」と

なっていますね。

 

巻頭の「グラビア おもいで」モノクロ写真の内訳。

1)父、黒木宗次郎
2) 昭和17年 新婚の頃
3)工場全景
4)昭和28年正月 当時の従業員の人たちと
5)昭和30年頃の海水浴
6)酔うと決まってこの花売娘
7)昭和32年小倉ヶ浜・レクレーション(好きだったお酒)

8)昭和46年、NHKのどじまん
妻・恵美子出場の際日向時産の碁石の説明
9)昭和48年10月、娘、玲子の結婚の際
10)昭和35年10月 耶馬渓にて(職場旅行)
11)昭和45年頃 子供の国にて(職場遠足)
12)石黒敬七氏と
13)昭和51年頃、6人組旅行
14)長男、宏高と囲碁対局中
15)昭和50年、妻恵美子との笑顔スナップ
16)昭和53年、妻恵美子に支えられ入院中の訓練
17)昭和57年、庭で歩行訓練
18)昭和56年、日向市文化賞受賞メダルを首にかけて


<まえがき>

明治26(1893)年に初めて発見され、囲碁界に大きな

発展を残し、多数の名石を生んだ日向の蛤(スワブテ貝)は

昭和40(1965)年頃から少なくなりました。

最初の内は日向蛤の足りない分をメキシコ貝で

補充する程度でしたが年々減少して、昭和56(1981)年

現在にはメキシコ貝が殆んどを占めて、日向産はその

1%にも及ばないようになりました。

又、製造の方法も段々と改良され、昔からの製法も

忘れさられようとしています。

然し一部の製造方法は昔ながらの製法が残っています。

ここで業界全体を考えて見ましても昔のことを知っている人は

殆んどいなくなりました。

現在このように発展したのは昔があってのことですので、

出来るだけ沢山の人に昔の事を知ってもらい

何かのお役に立てばと思いこれを書きました。

私は3年前、脳卒中で倒れ半身不随で家の中を

やっと杖で歩く程度で、目も悪く、レンズを頼りに

やっと書いたので文が後先になったり、

読み難い点も多々ある事と思いますがご容赦下さい。

 

1-1)手ズリとジョレン堀

●明治26(1893)年に現在の日向市平石出身で相撲取り、

緒方★造(★部分はPC変換できず)さんが

大阪市の諸国珍物館に日向の貝を出品した。

これを見た大阪一の碁石碁盤商で紀洲藩士石橋小七郎氏が

弟子の、同じ紀洲藩士森元次郎氏を日向に送り貝を集めさせた。

これが日向碁石の初めである。

最初の内は貝を集めてそのまま大阪へ送っていたが、

その内、貝の厚い部分を選り出し、手ズリをするようになった。

そして日向でも碁石造りを習う人も出て来たり、

大阪に行って習う人も出て来た。

大正6年の頃、三十五、六の青年が来て、一週間位

色々と道具を作って泊りがけで行き、その後は

時々行くようになった。

私の父が碁石造りを習ったのは大阪の人とだけ

聞いていたので名前を知りたいと思い、いろいろ

さがしていたら、自分からきてくれた。

自分は森元次郎の長男で森主太郎、号を如水と言い、

緒方さんの話や石橋小七郎さんの話をした後、

私が捜していた人が大体同じだと話した。

●貝は最初は浜に打ち上げられたものを拾うだけだった。

拾うのがなくなったら火箸のような物で貝を探し、

スコップ等で掘っていたが、段々深いところから

取るようになった。

代表的なのはジョレン掘りである。

鋼鉄で五、六尺ある「サシ棒」で突いて貝を探る。

貝が当たればジョレンで掘る。

大体潮時を見て掘る。

1人でも2~3人でも掘れる。

1人は浅いところ、深いところは2、3人で掘る。

とても重労働で大きなメンパの身もフタも

一ぱいにつめた昼めしを3回ほど食べる。

皆農家の副業である。

取れた貝はその日の内に業者に売り渡す。

昭和10年頃の事だが、1枚1枚厚みを計って買う。

一番厚い正四分が取れたら1枚3円で、

お金の他に焼酎1本を業者が出す事になっていて

皆でお祝いをする。

貝1枚が3円もするものや、7銭から3銭のもの、

もっと安いものもある。

その頃の農家の日当は1円くらいだった。

又、旧暦の1日と15日は取れても取れなくても

焼酎を出す習慣になっていた。

●初期の碁石成形方法。

荒割りでたがねと金敷で割るところから始めていた。

 

1-2)ケタ網、床堀、モグリ、その他

●貝ケタ網は袋の入り口にクシの歯のようなものが

ついていて、舟でこの袋を引いて取る方法である。

舟が何艘も出来ると網の目を細かくして

碁石にならないような小さいのまで取るようになり

この方法は早く禁止された。

●床掘りは芝や木の枝などで入り江をしめ切り、

水をポンプで汲んで掘る方法。

十人以上位で1週間ぐらいかかった掘った。

この方法は取れないことの方が多かった。

●舟からもぐりでとる方法等その他いくらでもあった。

 

1-3)サンドポンプ船及び機械ズリ

●人力では取れなくなり昭和25、6(1950、1951)年頃、

サンドポンプ船を考え出した。

自動車のエンジンを使い水と砂を一緒に吸い上げ

貝だけを受ける方式だった。

我も我もと増えてあまりに採れ過ぎて貝を買うのに苦労した。

昔は焼酎を飲ませて買ったものだが、

今度は貝掘が焼酎を飲ませて売った。

金が無いと言っても金はいつでもいいからと言って

どうでも押し込んだ。

昭和35(1960)年頃になるとボツボツ少なくなってきた。

サンドポンプを一段大きいものにして深いところを

掘っても貝の質が悪くどうにもならなかった。

●昭和10年頃までは今までの手ズリから足ぶみに

なり、精米所の一隅で電力を使って行った。

動力式の耳ズリ機や面ズリ機もあったが

一般にはまだ原料の仲買が多く、厚いものは

手ズリの方が良かった。

●昭和12年頃から原料がだんだん少なくなり、

うすい貝は大阪へ送って厚いものを手ズリで

作っていたが、うすいものもつくらざるを

えなくなり機械ズリを考えるようになった。

●昭和14年頃には大阪では最も進んだ機械ズリ

でやっていたと云うので大変心配だった。


1-4)クリヌキとメキシコ貝

●クリヌキについては昭和35(1960)年頃から

研究していたが、昭和40年頃になって漸く完成した。

同業者にも教えた。那智黒も早速クリヌキを始めた。

荒割、カギ石、耳ズリの3工程が1工程で

できるようになり、女子でも出来るようになった。

しかしなれないと貝をはねるので危険であり、

このクリヌキで厚い所を中心に抜くので

相当の技術を要し、責任も重い。

このクリヌキは画期的な進歩と言えます。

しかしダイヤモンドドリルの刃が1本

4千円と高く、その上、1本で3、4日しかもちません。

●昭和40年頃から少なくなってきた日向ものの補充に

商社を通じてメキシコ貝を仕入れて作っていた。

最初はお客様に敬遠されたが、日向ものの絶対量が少ない為

何とか納得してもらい、3、4年で軌道に乗った。


2-1)幼年時代

●父宗次郎は客馬車や荷馬車を引いていたが

私が生まれた年に高く積んだ荷物が崩れ

下敷きとなり腰を痛め仕事が出来なくなった。

そこで大阪から来ていた人に碁石造りを習ったそうだ。

森如水さんの話では森元次郎氏であるとのこと。


2-2)学生時代

●父は碁石を売りに延岡に行ったが全く売れず

原価で売って来た。

そんな時、石川真男さんが目を付け、碁石ズリを頼んだ。

石川さんは機械を取り付けて荒ズリはできるが

仕上げをする人がいなかったので、

父が碁石を持ち帰り、自宅ですることになった。

石川さんが私が知っている限りでは最初の親方である。

●四国から来たと言う松本清三と言う人が

毎晩のように遊びに来て世間話をした。

3、4カ月続いて碁石の話もする様になった。

四国は碁が盛んな所で金持ちも多い。

直接売りに行ったら売れると言った。

3カ月も毎日のように話をしていたし、

信用出来る人物だと思い、十組くらい碁石を

松本さんに託した。

松本さんはそれきり音沙汰も無く、住所も知らないので

調べようがなかった。


2-3)実社会に出て

●私が学校を卒業してみると予想以上の

借金があることが分かった。

●最初は何もかも手ズリでやっていたが

数は何程も出来なくて骨折るばかりだった。

足ぶみ機械を我家も作った。

全くの手ズリよりましだった。

次は精米所のグラインダーを取り付けた。

仕事も出来るし体も楽になった。

荒割も荒割機械でするようになった。

機械と言っても道具と言った方が良い。

原料を買う金が無いので最初の内は全部借りた。

返済を厳重にしたので信用を得、段々と貝を

持ってくるようになった。

月給取りと違って商売しただけはっきりと

目に見えるので張り合いがあって

昼休みも三時も休みなく、夜業も出来るだけした。

そうするうちに段々と借金が無くなった。

原田清吉さんが東京の前沢長太郎さんを紹介してくれた。

 

2-4)召集

●昭和13(1938)年に入隊した。

兵隊の苦労は入隊前に聞いていたが

話と実際とは言葉で表せない。

軍隊は小倉野戦重砲兵第五連隊だった。

夏は五時起床。

戦友の上等兵の床もあげ、服を着て洗面に行く。

その間5分か10分。

運動場へ行くともう皆出ていて遅れたら叩かれる。

馬を「オーラ、オーラ」と撫でながら足を洗ってあげる。

よく洗っていないとぶん殴られて洗い直す。

洗濯、靴磨き、上等兵の分もする。

風呂も一寸入ってすぐとび出る。

靴下も毎晩洗濯しなければならない。

八時半点呼、九時消燈。

消燈までにひとりでも風呂に行かなかったり

洗濯をしなかった者がいると初年兵は皆叩かれる。

叩かれるのは良い方で前支えをさせられたり

営内靴や青竹で叩かれる。

目が回る程忙しい。

よく物が失くなった。

食事番の時食器が失くなると不寝番の時

こっそり盗んで枚数を合わせる。

失くなった事がわかったら死ぬような制裁を受ける。

九時の消燈ラッパがなると、ほっかりした。

あまりに兵隊が多いので敬礼ばかりで

左の方に気をとられていたら右の方にもいて

ビンタを左右叩かれた。

私は徴兵検査の間違いで第一補充になったもので

他の人より2倍も3倍も叩かれた。

叩かれるのはよい方で、とんぼ返りや揃え元等

いろいろきつい制裁があった。

しかし殺すまではしないだろうと耐え抜いた。

自殺した者、逃亡した者も何人かいた。

●私は支那大陸に渡った。

昼夜ぶっ通しで行軍した。

眠かった。

大きな池に着き、皆のどが乾いていたので

すぐにとびついた。

支那の茶碗に汲んだら小さな虫がうようよして

底は見えなかったがプープー虫を吹きよけながら飲んだ。

生水は飲むなと上から注意があっても、

沸かしている暇など無い。

●柵田曹長が大腿部貫通の重傷を負った。

夜のうちに戸板に乗せて後方へ下った。

「痛い。痛い」と泣きながら母や妻を呼び続けた。

そこでは何も手当が出来ず、ただ止血をしたばかりだった。

呻き続ける曹長を5、6人交代で抱え、真暗な中を下った。

数時間かかり衛生兵のいる所まで行き、私たちは

夜の内に元の所へ引き返した。

私達は足の傷だから大丈夫だろうと思っていたが

翌日、曹長は亡くなった。

戦いが少しおさまったので、曹長の遺体を焼いた。

兵隊に坊さんがいて念仏を唱えた。

●内地ではあんなに叩かれていたが

戦地では怒られることもなく、誰もが親切で

兄弟のように可愛がられた。

●正月休暇を取って帰って良いことになったが

父の死に目に会えなかった。

先ず親を安心させる事ばかり考えていたので

何の為に今まで一生懸命仕事をやってきたのか

何も希望が無くなった。

父も私に会うのを今か今かと待っていて

「一士が帰った&一士が帰った」と言って

目を落としたという。

59歳であった。

思えば父はただ仕事ばかりの人で

私の嫁も孫も見ずに亡くなった。

苦労ばかりの人であった。


2-5)召集解除

●戦後は何もかも配給だったが、何といっても

食糧が一番困った。

田舎の人は塩に困っているそうで、

皆のように私も塩たきをしたがよく取れなかった、

碁石より他には何にも出来ない。

こんな時代には碁石など売れそうにも

なかったが兎に角、碁石を造ることにした。


2-6)近年のこと

●昭和38年、長男が高校を卒業し、家業に就職した。

次男は同志社を出て県庁に就職していたが

公務員は性に合わぬと昭和48年、退職して

家の仕事をするようになった。

●昭和50年、長男がメキシコに出張し、それ以降は

直接原料を採取する人から買い取るようになった。

最初の内は少しずつだったが、次回からは

毎年次男が出張し、信用を高め、段々多くなった。


2-7)脳いっ血について

●病気にかかる2、3年前から碁石造りは

囲碁を楽しむ人達の気持ちも知っておきたいと

思って本格的に囲碁を始めた。

囲碁の面白さも或る程度わかって級があがるのが

楽しみになってきていた。

碁会所に行き第一回目がすんで二回目に

かかろうとしている時、左指がしびれて来るので

日曜在宅医にの所へ行くようタクシーを頼んだ。

車が来た時は右足もよくかなわず人から乗せてもらった。

この病気は薬も注射もなく、ただリハビリテーション

だけだと言われびっくりした。

きかぬ手足を動かすのに患者は無論、

付き添いの家内の苦労も並大抵ではない。

病院で習ったリハを家内に助けられ毎日

欠かさずやっているが、未だに手は全く動かず

足は半長靴をはいて杖をつっ張って室内をどうにか

歩く程度だ。

倒れて初めて病体がはっきりするが

そうなっては手遅れなので、元気であっても

時々専門医に診察を受けることが一番

大切なことと思う。

この病気は常に適当な食事療法と

適当な運動によって予防出来る病気だと思います。

私の二の舞だけは絶対しないようお願いします。

最期に昭和56年、日向市制施工30周年を迎え、

記念として私も表彰を受けました。

思いがけないことですが、これは私一人ではなく

従業員や家族一同が受けたもので、大きな喜びと

共に尚一層立派な碁石を造る事に努力するよう、

皆に話しております。

 

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日向碁石は取り尽くされたんですね。

その背景がよく分かりました。

また、現代の碁石のクリヌキ工法の歴史は

1965年頃からと浅いというのは驚きでした。

 

http://zakimiya.com/hamaguri-goishi
http://zakimiya.com/hamaguri-goishi-2016
http://shogo22222.ninja-web.net/miyazaki-kourakuti/hamagurigoishinosato/hamagurigoishinosato.html
http://blog.livedoor.jp/luv_miyazaki_aa/archives/41158231.html
http://blog.livedoor.jp/luv_miyazaki_aa/archives/59994092.html

黒木碁石店様&はまぐり碁石の里様に関しては

これらのレビューがあまりにも完璧すぎて素晴らしいので

びりたんが宮崎に行ってレビューする意味を見いだせずに

いました。

しかし、本書を読んで、やはり、はまぐり碁石の里様を

訪問したくなりました。

2017年9月末日には宮崎の熊須碁盤店様が

博多阪急百貨店までお越し下さるようです。

それを訪問した後で、宮崎行きを検討したいと思います。

はまぐり碁石の里様は元日も営業しておられるようですし♪