千葉でのほろ苦き思い出 | ビリー諸川の生涯ロカビリー!!

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千葉そごうの『ハワイアン・フェステイヴァル』で、5日間にわたって司会をしてきた。
千葉駅へ電車で通ったのは、27年ぶりのことである。千葉と言って真っ先に思い出すのはあのこと…。

そう、忘れもしない。あれはパルコ屋上ビア・ガーデンでの営業ライヴでのほろ苦き思い出。

当時、僕はピンク・キャデラックス(以前、このブログで山崎直哉氏の項のときに登場したバンド)というロカビリー・バンドのヴォーカルで、メジャー・デビューを夢見る純なロカビリー野郎だった。

この仕事を僕らに依頼してきたのは、ライヴ・ハウスで知り合った名もない音楽事務所の社長。
その社長が「キミたちの音楽は素晴らしい。どうだろう、千葉のパルコのビア・ガーデンで1ヶ月演奏してもらえないかな?うまくいったら、『11PM』にも出てもらうから」と。

えっ!?11PM?11PMっていったら、あの日テレの?あの♪シャバダバ~♪シャバダバ~♪シャバダバ~♪シャバダバ~♪っていうエロ番組、じゃなくて大人の男の情報番組ではないか!メジャーじゃないか!

何とかロカビリーで世の中に出ようと必死になっていた僕らは迷わず、その依頼を引き受けた。


ところが、ところがである。
いざ出演してみたら、初日はそこそこ人が集まったものの、二日目からはその客足がパタッとなくなり、出される賄いも白飯にレタスとシューマイが2個だけという信じられないほどの冷待遇となったのだった。それでも僕らは、30分のステージを1日3回、ひたすら『11PM』出演のために精一杯頑張った。

僕らの精一杯とは、パンク精神全開となるステージだった。

それが客からもビア・ガーデン側からも嫌われる要素になっていたと知ったのは、随分あとになってからのことだった(だからレタスとシューマイ2個だけだったわけだ)。
とにかく当時は自分らは最高だと思っていたから、例えばヴォーカルの僕はエキサイトしてくると歌いながら滑って、そのまま1.5mの高さからステージ下に落ちたりしていた。ベーシストは、ネックを持ってあのデカいボディをブン回し、ギタリストは、ステージから客のテーブルに飛び乗ったりしていた。

僕らはそれを“これぞロカビリーの真髄!”と演っていたわけだが、客たちや店の人間は、そういったパンク色の強いステージに嫌悪感を抱いていたというわけだ。

一ヶ月の出演は二週間で打ち切られ、もらったギャラも二週間演って、ひとり三千円という信じられないほどの額。当然『11PM』出演の話もお流れとなった。

そんな具合だから、そのフラストレーションの爆発から、最終夜には、ギタリストとドラマーが大喧嘩となり、ヌンチャクとナイフでやり合うなんて事件まで起こったりもした(国士館出の直哉さんがその場を収め、大事には至らなかったが)。

とにかく、千葉というと今もそのときのひとつひとつのシーンがはっきりと浮かぶのだ。そしてそれらは当時は苦い経験だったが、時が過ぎ、今ではかけがえのない良き思い出となっている。
余談だが、それから7年後、メジャー・デビューを果たした僕が最初に出たテレビ番組が『11PM』だった。