早期英語教育を家庭でやろうと思ったきっかけから、DWEをメイン教材に選ぶところまで一気に書いてしまいましたが、そもそもなぜ我が子に外国語を身につけてほしいのか、根本的なところをまだ書いてませんでした
上手く言葉にできる自信がないのですが、よかったらお付き合いください
早期英語教育を考えたきっかけ①にちらっと書いた通り、元々は早期英語教育に否定的だった私ですが、我が子には(というか世界の若者には)大人になるまでに外国語を身につけて欲しいなあと考えていました。
理由は、大学入試で必要だから、就職に必要だから、昇進に必要だから、グローバル化社会の中で活躍するのに必要だから・・・というのも嘘ではありませんが、
一番の理由は外国語を学習すると人間が、そして人生が豊かになると考えるからです
私は大学生になってようやく英語を使えるようになった(自慢できるレベルではありませんが)ので、モノリンガルだった時期も長く、その頃の自分自身のこともよく覚えているため余計にそう思うのかもしれませんが、使える言語が一つ増えるというのは、物事を違った視点で捉えることのできる新しい自分に出会うということだと思います。
例えば、土屋健郎さんの著書に『「甘え」の構造』という本がありますが、その本によると英語には日本語の「甘える」にあたる言葉がないそうです。
和英辞典で調べてみると、「behave like a baby」とか「make up to」などと訳されているわけですが、確かにどれもしっくりきません。
日本人だったら、信頼関係を築いているごく親しい間柄の人に対して、我が儘だと分かっていつつも、ちょっとした我が儘を言ってしまう時ってあると思います。正に「甘えている」状態ですよね。
でも、この状況を日本語を知らない人が見ると「あの人は赤ちゃんのように振る舞っている」という解釈になってしまうわけです。人間は言葉でしか感情を整理できませんから、「甘える」という言葉を知らなければ、知っている言葉で解釈しようとするわけですから仕方のないことです。
でも、「甘える」と「赤ちゃんのように振る舞う」は決してイコールではありません。もし、自分が甘えているところを誰かに見られて、その人に「今日の君は赤ちゃんのようだった」と言われたら、ちょっと違和感を感じると思います。
そして、少し飛躍してしまいますが、こういった小さな違和感の積み重ねが大きな国際問題に発展してしまうのではないかと個人的には思っています。
でもですね、もしその人が日本語を勉強したらはじめは分からなかった「甘える」という気持ちが段々と分かってくるんです。
新しい言語を獲得するということは、自分の中に今までなかった感情や考えに出会うこと、そういう感情や考えがあると理解し、それを受け入れていくことだと思います。例えそれが今まで自分が「当然」「常識」と信じて疑わなかったことと違ってもです。
これを繰り返すと、金子みすずさんの詩ではないですが、「みんなちがって、みんないい」の境地に辿り着けるような気がします。
私は意外にもロマンチストなところがあるので、世の中の人みんなが「みんなちがって、みんないい」って思えたら、世界は平和になるのになんて考えてしまいます
話が少し大きくなりすぎましたが、私が英語を勉強して、海外で暮らす経験をして、一番よかったなと思うのは他者への不満が減ったことです。
それ以前の私はまだ若かったこともあり、
「普通こういう時ってこうするよね」とか
「あの人の考え方っておかしいよね」とか不満タラタラだったのです。
でも、異国の地に暮らして、新しい言葉を覚えてという経験をする中で
「みんな違って当たり前」と思うようになり、
自分の予想や期待と違う反応が返ってきてもイライラするようなことは
ほとんどなくなりました。
これだけで人生ものすご〜く変わります
違いを認められずに、文句ばかり言う人生と
違いを認め、むしろ違いを楽しんじゃう人生
後者の方が絶対に幸福度が高いですよね
自分の子どもには後者のような人生を歩んで欲しい。
それが我が子に外国語を学んで欲しい理由です