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きまぐれ短編小説(風)シリーズ

自由な文章を書きたい欲求にまかせて、日常を短編小説風に書いています。
気まぐれ更新となりますが、楽しんで読んで頂ければ幸いです。

『その人』は、「遠いところ」から戻ってきた。本当に久しぶりに。前触れもなく。突然に。

『その人』とは、他でもない、私の母である。

母が認知症という呼び名をその身にまとうようになってから、3度目の桜の季節が巡ってきた。

それまでうるさいくらいに賑やかだった母が、部屋の壁に向かってぼやっとしている時間が多くなっていることに、気が付いたのは、仕事の多忙さが一段落した11月のことだった。

元より鬱傾向があることもあって、そんな母の姿を私は軽く見ていた。ま、そのうち浮上するだろうし、と。

しかし、私の余りにも甘えきった予想が、逆に神様の怒りを買ったのではないかと思えるくらいに母の症状は悪化し、あっという間に母は4次元の世界の住人となった。

その後、幸いなことに良い先生と巡り会うことができ、4次元の世界からは戻ってきてくれたものの、それでもやはり「遠いところ」にいて、母の心に触れることはもはや不可能なことと諦めざるを得なかった。

そこにいるし、話しかけると返事もする…それなのに母の心はバーチャルリアリティーのように形はあれども、実態がないのだった。

そんな母のあり様にも、それ以上のコンタクトを諦めることにもすっかり慣れた最近の生活の中で、母が転倒して手首を複雑骨折するという事件が起きた。

予想よりも重傷で経過が思わしくなく、再手術となり、一度目の手術後の母の状態に手を焼いた病院から、二度目の手術後の付き添い依頼。

そして、今、狭い個室の中、母と二人の長い…永い夜を過ごしているのだった。

喉が乾いた、家に帰りたい、と無理な要求ばかりを繰り返す母。
ダメだよ、今日は手術したばかりだから、との答えを返し続ける私。

どれだけ同じ言葉ばかり繰り返せばよいのか。

深夜になるにつれ、眠ることなく問う母に、私の忍耐力が限界に近づきつつあるその時だった。

「あやは可愛い」

その一回だけ、一回だけしか聞こえなかったけれども、確かに母はそう口にした。

一瞬の後には、いつものようにその目は違うところを見ていたけれど、それでも私はキャッチしたのだ。ほんのひととき、実態と魂が一致した母の存在を。

帰ってきたね。3年ぶりだね。貴女は、今でも自分は私の母だから、との想いを抱いているんだね。

次に貴女が「遠いところ」から帰ってくることがあるのかどうかわからないけれど、それでもこの瞬間、貴女をキャッチした経験を私はきっと忘れない。

例え、私が聞き間違いをしていて、本当は母はそんなことを言っていた訳ではなかったとしても、かまわない。

私は、母が私の母として存在していたことを記憶の深い部分へタイムカプセルとして埋め込む。
そして、この作業はこれからも不定期に繰り返されるのだろう。

母が肉体的に「遠いところ」へ逝ってしまうその日まで。