東北ツーリング5日目も秋田県を海岸沿いに走り、秋田⇒由利本荘と南下しました。
そして日本海東北道を利用して、にかほ市にある「南極公園」へとたどり着きます。
「南極公園」の真ん中には、南極探検船「開南丸」の実物大の模型がありました。
そしてここに来た目的は、併設する「白瀬南極探検隊記念館」を見学するためです。
そして尖った円錐形の建物に、それを囲むように立つドーナツ型の建物へと入ります。
入館料は300円で、入口から工夫を凝らした作りになっていて、期待が膨らみます。
この施設では、にかほ市出身の白瀬矗と、彼の壮大な夢とロマンを今に伝えています。
1893年白瀬は、将来の北極探検に備えて、まず千島探検を目指しました。
ずさんな探検計画のため越冬生活は悲惨で、1895年「八雲丸」に救出されます。
1909年白瀬はアメリカの探検家ピアリーが北極点の踏破に成功したことを知ります。
白瀬は大きなショックを受け、探検の目標を北極探検から南極探検へ転換しました。
1910年白瀬は、帝国議会に支援要請しますが、政府は援助金を支給しませんでした。
1910年11月に「開南丸」が芝浦を出航しますが、氷塊に前進を阻まれてしまいます。
1911年3月にオーストラリアに引き返し、11月に再びシドニーを出港しました。
12月にはアムンセン隊(ノルウェー)が前人未踏の南極点を遂に踏破します。
1912年1月16日、白瀬隊の開南丸は南極ロス海ホエールベイ(鯨湾)に到着しました。
1月17日スコット隊(イギリス)も南極点を踏破しますが、帰途で全員遭難死します。
1月20日、白瀬隊長は事故に見舞われ、走行距離282キロの地点で遂に力尽きます。
1912年1月28日氷原突進を中止した白瀬隊は、日章旗を立て、視野に入る全地域を
「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、日本領土とすることを宣言しました。
1912年2月、探検隊は帰国の途につき、6月20日「開南丸」が芝浦に到着します。
無事に帰国は出来ましたが、探険の借金をすべて白瀬が背負うことになります。
南極探検を終えたあとの白瀬の後半生は、借金返済のための苦難に満ちた人生でした。
借金を返し終えたとき白瀬は74歳になっていました。そして満85歳で亡くなります。
「白瀬南極探検隊記念館」で学んだあとは、引き続きR7を酒田方面へ進みます。
右を見ればオーシャンブルーの日本海、左を見れば冠雪した鳥海山がお供します。
鳥海山の眺めがあまりにも良いので、途中のコンビニでコーヒータイムです。
コンビニの裏手から撮ったのですが、なかなか決まっているかなと思っています。
見る角度によって、鳥海山の山容が変わってきて、違う山にも見えてきました。
この時期の山の景色は、残雪によって綺麗で迫力があるため、見応え抜群です。
やがて道は秋田県から山形県へと入ります。相変わらず海側の景色も良い感じです。
鳥海山は約60万年前からの火山活動によって、流れた溶岩が重なりあっています。
このあたりの釜磯海岸も鳥海山から海中まで流れ込んだ溶岩でできているそうです。
R7沿いに「道の駅 鳥海 ふらっと」があったので、ちょっと立ち寄ってみました。
ここには、物産販売・飲食・休憩が主体の「森のエリア」愛称ふらっとと、
日帰り温泉・宿泊・スポーツ施設が主体の「海のエリア」があります。
道の駅から先は、日本海東北道の無料区間があったので、ちょっとだけ利用します。
酒田みなとICで高速を降りて、またもや鳥海山の写真を撮りに寄り道しました。
やはり、先ほどと見る角度が変わったので、山の形が違って見えますね。
酒田の街で訪れたのは、港の近くにある歴史的スポットの「日和山公園」です。
園内には、日本最古級の木造六角灯台や方角石、広々とした芝生がありました。
もう終わりましたが桜の名所でもあり、毎年4月には日和山桜まつりが開催されます。
他にも往時活躍した千石船(1/2で再現)があり、港町の風情を醸し出しています。
江戸幕府は、食料供給のため酒田港より御城米を江戸に直送することを命じます。
河村瑞賢はここに御城米置場を完成させますが、その記念碑が建っていました。
日和山公園の散策も終えて、そろそろ本日の宿がある鶴岡市へと移動します。
日が暮れる前にホテルへとたどり着き、食料を調達してシャワーを浴びました。
今日も良く走りましたので、ご褒美のレモンサワーで1日を締めくくります。
※Part20へ続きます。
今日はここまでで終了です。
最後まで閲覧いただきまして、ありがとうございます。
また次回お会いしましょう。
ではおやすみなさい(^^)。
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