埼玉深谷歴史探訪 | 生涯旅人の徒然日記

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気の向くまま走るバイクツーリングが好きです

冬らしい天気になってきて、バイクでのロングツーリングはなかなか厳しくなってきました。こんな時は歴史の勉強を兼ねて近場を訪ねてみるのも良いかと思います。今回は埼玉県の深谷市近郊にて、近代日本資本主義の指導者である渋沢栄一に纏わる場所を巡ってみます。

埼玉県へと向かうために利根大堰にて利根川を渡ります。高度経済成長期において、東京都の水需要の急激な増大は深刻な問題となっていました。この為、建設省(現・国土交通省)は、東京の水需要を多摩川から利根川に転換すべく、利根大堰を1968年4月に完成させました。

その後は県道59号→県道359号→県道264号→県道276号と走り、R17にて深谷市街へと入ります。そしてまずはJR高崎線の深谷駅へと立ち寄りました。現在の駅舎は東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザインで、大正時代に竣工した東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷に所在する日本煉瓦製造で製造された煉瓦が使われたことに因んでいます。

駅の裏手には「瀧宮神社」があります。古来よりここは湧水の豊富な土地で、飲料や用水など多くの幸を授けることから、水の源を神様から戴いた清浄な地ととらえて神社を建立しました。神水が川に流れ落ちる様を瀧になぞらえて「瀧の宮」と名付けたといわれます。

続いて「渋沢栄一 青天を衝け 深谷大河ドラマ館」へと移動してみましょう。入館料800円を支払って館内へ入ります。大河ドラマ「青天を衝け」で使用された小道具や衣装などの展示のほか、栄一が青年期まで育った「中の家(栄一の生家の通称)」のセットを一部再現し、ドラマの世界観を体験できます。

2024年度に千円、5千円、1万円の紙幣(日本銀行券)は04年以来、20年ぶりに一新されますが、新紙幣の表の図柄は1万円札が渋沢栄一、5千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎になります。当然のことながら、渋沢栄一の生まれ故郷である深谷でも、新1万円札に便乗していました。

深谷にある日本煉瓦で製造された煉瓦は当初は利根川を利用して運んでいましたが、輸送力向上を目的としてに日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって専用鉄道が敷かれました。その廃線跡が今でも確認できる場所があります。そのひとつが、ブリッジパークにある旧福川橋梁です。

そんな旧福川橋梁を見学して、引き続き備前渠鉄橋にも立ち寄ってみました。備前渠用水路は利根川から取水し、約1,400haの水田にかんがい用水を供給する延長約23kmの農業用水路です。1604年に江戸幕府代官頭の伊奈備前守忠次により1年間という期間で開削された埼玉県で最古級の用水路で、令和2年12月8日、備前渠用水路が世界かんがい施設遺産に登録されました。

次は小山川を渡って「煉瓦史料館」へとやってきました。この地にあった日本煉瓦製造株式会社の施設や資料がここに保存されています。近代的な官庁街や鉄道等の整備を強く推進していた明治政府の意向を受け、1888年に操業を開始しました。当地で製造された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋や旧東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)などに使用され、日本の近代化に大きく寄与しました。

続いて「誠之堂」と「清風亭」へと移動します。この2つの建物は、深谷市で生まれた渋沢栄一にゆかりの建物で、平成11年に東京世田谷区から深谷市に移築されました。ともに建築史上、重要な建物で、「誠之堂」は平成15年、国の重要文化財に、「清風亭」は平成16年、埼玉県指定有形文化財に指定されました。ちなみに9:00~17:00に常時無料で公開されています。

次は尾高惇忠生家へとやってきました。尾高惇忠は渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもありました。明治維新後は富岡製糸場の初代場長を務めました。この生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋(非公開)が二階にあります。見学は無料です。

続いて渋沢栄一記念館へとやってきました。広い駐車場があるので、安心してバイクを停められます。資料室には渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真など、たくさんの資料が展示されています。
さらに多目的室では渋沢栄一に関する映像を見ることもできます。

2階にある講義室では渋沢栄一アンドロイドによる講義を見学することができました。近くによって記念撮影もできるのですが、かなり精巧に作られていて、本物の人間と見間違うほどの出来でした。ちなみに渋沢栄一は身長153cmと小柄なひとだったようです。

そんな小柄な渋沢栄一も、記念館裏手では巨大な銅像として建てられていました。この銅像は「男爵渋沢青淵先生寿像」として1913年に制作されたものを現在の大きさにして、1988年に深谷駅前の青淵広場に建立されました。その後、市に寄付され、1995にここへ移設されたそうです。

そして締めくくりは旧渋沢邸「中の家(なかんち)」へと立ち寄ります。ここは渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物です。渋沢栄一が多忙な中で帰郷した際に滞在し、寝泊まりした場所です。副屋の前には渋沢家歴代の墓地があり、入口には若かりし頃の栄一像が建っています。

現在残る主屋は1895年、渋沢栄一の父・市郎より上棟されたものです。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建て、西側に3間×3間の平屋部分などを持ちます。また主屋を囲むように副屋、土蔵、東門がたち、当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形態をよくとどめているといえます。

渋沢栄一は、多忙の合間を縫って、年に数回はこの家に帰郷していました。東京飛鳥山にあった私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る渋沢栄一が親しく立ち寄った数少ない場所と言えます。平成22年、主屋を中心とした範囲が深谷市指定史跡に指定されました。

深谷の歴史ポイントを巡り終えて、県道45号沿いにあるラーメン屋「永来」にて遅めの昼飯を食べることにします。腹が空いていたのでラーメンと餃子を注文しましたが、ラーメンは濃い目の醤油スープで、餃子はニンニクが効いた味でした。ごちそうさまです。

このまま帰路へと付きますが、せっかくなので、「熊谷市立妻沼展示館」へと立ち寄ってみました。ここは日本公許女性医師第1号である荻野吟子の生家である長屋門を模した、瓦葺屋根の和風建築の建物です。館内には歴史のある彫り物や絵が飾られていました。

また屋外にはかつて東武熊谷線で活躍した車両が展示されています。 いたずら防止のために施錠されていましたが、職員の方が見学のために車内に入れてくれました。 展示館の館内には東武熊谷線の関連の展示や妻沼聖天院の関連のものが展示されています。

東武熊谷線は、熊谷駅から妻沼駅までを結んでいた東武鉄道の鉄道路線です。もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期に、群馬県太田市の中島飛行機(現・SUBARU)への要員・資材輸送を目的として建設が計画されましたが、1983年に廃止となっています。

最後に葛和田の渡し(葛和田渡船場)へと立ち寄ってみました。これは埼玉県熊谷市葛和田と群馬県邑楽郡千代田町赤岩の間を通る利根川の対岸同士を結ぶ渡船です。埼玉県道・群馬県道83号、熊谷館林線の代替渡船で、県道の一部として位置づけられる『県道扱いの渡し船』です。ちなみに船に乗るときは黄色い旗を掲げます。

今回は短い距離でしたが、歴史の旅を堪能できました。

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