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そうした中で、高校生になってふと気づいたことがありました。

私は階段がものすごく苦手だということ。

上るのが疲れるからとか辛いからとかではなく、
泣き出したくなるような明らかな嫌悪感。

「階段イップス」のような感覚もあったけど、
階段を使わなくてはいけない時がくると急に胸が狭くなり今すぐここから消え去りたくなる。



―なんで私が階段を使う人生を歩んでいるの?

―私は階段なんか使わない体な気がする。

―今すぐしゃがみ込んで抵抗したい。階段なんて生活範囲からなくなればいいのに。



階段が嫌いだ。



そう思いながらも顔には出せないので、
平然を装い抵抗もせず上り、そのたびに心と体に齟齬が生じては苦しくて…

"決して言ってはいけない気持ち"というヒビが入っていくような感覚が小さい頃から常にありました。


過去を振り返ってみると、たまたま私の人生には何かしらの障害(心身問わず)を持った人たちがいました。


保育園で同じクラスだったあの子、
小学校では支援教室の清掃担当になって、
高学年からは市の催しによく顔を出すようになり、たくさんの交流をしました。


その都度、責められているような気もするのです。

彼らからすれば私は全くの健常であり、
そんな私が障害に憧れているのはちゃんちゃらおかしい腹の立つ話(だと思う)。

そこに全く異論はないけれど…


辛いのも事実。


20歳を超え、二本の足で歩き、学習に遅れもない、その形を経験できたのは有り難いことだと思えるは思えますが、そこに私の幸せはありませんでした。

ずーっと車椅子に憧れてきました。
通りすがる人、お店やサンプルのディスプレイとすれ違う度、
まるで気にしないふりをしながら、心のなかでは指を咥えて唇を噛んだ。

そうやって20年生きてきて、もう限界だった。


そうして色々調べていくうちに「身体完全同一性障害」に出会いました。

あの夜のことはなかなか忘れられません。

パズルのピースがびったりとハマるような。安堵と感動がありました。



ああ、これだったのだな。

と。




片鱗を思い出していたら長々と連ねてしまいました。

ちいさい頃からなんとなく感じていた違和感というものはこのことだけではなくて誰にでもあるのだろうと思います。

ジェンダーや性指向、家族に対するモヤモヤや、人と馴染めない自分への混乱。


それに名前がつくだけで救われる人もいるし、突き放される人もいる。

ただ私は救われた。

これで良かったのだと、今は思っています。



やっぱり乱文、読みにくくてすみません。

また落ち着いたら書き直してもいいかと思いますが、今の熱はこんな感じなのでそれもそれでいいのかな?



では。